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1日目
   かわね路号と寸又峡の「うん」も森林軌道跡の笑いに揺れた夢の吊橋、
   及び花火にも取説が必要かどうかについての事例報告



「いつでも行けると思っていると、いつまでも行かない」というのは、我が心の師・宮脇俊三先生の名言である。

 僕は、こまうさぎ氏と遠距離恋愛をしている関係上、東海道を鉄道で通ることが屡々である。その為、沿線の風景は写真に撮ったように覚えているものが多いし、内田百關謳カが「特別阿房列車」の中で語られている「汽車の中で居睡りをしてゐて、どこで目がさめても、目がさめた途端に見えた窓の外の景色で、ここは何処の辺りだと云ふ事が解る」才能も、ほぼ身に付いてしまった。
 而るに、つい最近までその沿線に、未乗のまま放ったらかしになっている路線が散見されたのである。
 読者諸兄のご存じである通り、僕は「旅客営業鉄道全線乗破」を目標に掲げ、日本各地に未乗のまま残る路線を丹念に乗破してゆくという旅を幾度もしているのだが、それにしては、天竜浜名湖鉄道(2004年9月乗破)、樽見鉄道(2005年3月乗破)、遠州鉄道(2005年6月乗破)などなど、つい最近まで未乗のまま残存していた路線が異様に多かった。
 しかし、本当にいつまでも行かないというのも、それらの線に対して申し訳ないような気がするし、こまうさぎ氏邸への往復時に少しずつ乗破してはいったのだが、一筋縄ではいかない路線があった。
 大井川鉄道である。
 大井川鉄道は、その名の通り全線を大井川に沿って走る鉄道で、大井川本線と井川線を合わせた全長は75.0kmに及ぶ。その気になれば一日で往復する事も不可能ではないが、この路線は元々中部電力が、大井川の上流にダム建設をするべく敷設した路線である事から山岳鉄道としての要素が強く、特に、途中駅の千頭以降には、ラックレール式鉄道で登る90‰の急勾配が待ち構えているのである。無論、他にも見所は多いのであって、これを一日で片付けてしまうのは実に勿体ない。

 千々に考えを巡らしていたある日、こまうさぎ氏が僕に旅の相談を持ちかけた。
 それは、同僚に鉄道の旅が好きな女性教諭が居て、一緒に旅をしたいと言っている。しかも1泊2日が限度ではあるが、歴史が深く、温泉のある所へ行きたい、という条件を付けてきたらしい。
 早速僕たちは検討を開始した。まず候補に上ったのは向こうが打診してきた山陰だが、これは日数の関係上どう考えても無理であり、敢えなく却下。その後、妻籠・馬籠はどうか、郡上八幡は、川原湯温泉もいい、などと議論は転々としたのだが、ここで僕は大井川の話を持ち出した。大井川なら、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の文句で名高いように、東海道という日本最大の動脈に育まれてきた歴史がある。また、沿線には寸又峡、接阻峡など温泉や深山幽谷の地も多い。そして何より、日帰りするのが勿体なかった大井川鉄道を、「友人との旅行」という大義名分の下に乗破できるではないか。
 一応の決定をみた上で、宿の予約はこまうさぎ氏に任せ、僕は行程の立案と列車の予約などを行った。いつも東海道本線の車窓から指を(くわ)えて眺めるだけであった大井川鉄道にいよいよ乗れるかと思うと、胸の奥が締め付けられるように熱くなる。この気分は、味わった事のある人でないと分からないかも知れない。

 僕は複数人数での旅をあまり好まない。その場のお喋りや雰囲気のせいで、見るべき借景を見逃したり、旅そのものの印象も曖昧になったりする事があるからだ。
 と言うと、お前は何も喋らず憮然とした旅を続けたいのかと仰言る方が居られるだろうが、無論、そうでもない。僕は大のお喋り好きであり、複数人数が集う場では、間違いなく黙っている時間より喋っている時間の方が長い。いつぞや、友人と麻雀をした際、あまりに話し止まない僕を友人が見かねて、うるさいから3分間だけ黙っていろと僕に命令した。僕もその瞬間は、命令の遂行を承諾したのだけれど、結果的に、その命令は1分と経たないうちに破られてしまったのである。
 つまり、僕が複数人数での旅を好まないのは、自分があまりに人にばかり気を取られるからであり、決して人嫌いな訳ではないのだ。

沼津駅に停車中の特急あさぎり
 さて、当日であるが、早速、としか言い様のないタイミングでトラブルが発生した。早朝、まだ僕たちが家を出る前からこまうさぎ氏の携帯が鳴り、同僚・なななのにご氏の相方・たむたむ氏が、寝坊の為に予定の列車に乗り遅れたというのである。
 たむたむ氏は某国立大学の院生であり、少々遠方から来ねばならぬ為に遅れたのであろう。致し方ないので、一緒に来るというなななのにご氏(以下「ななな氏」と略記)に代替案を送り、僕たちは予定通りの列車で安倍川に向かった。
 大井川鉄道が東海道本線に接しているのは金谷という駅なのだが、安倍川はその7駅手前、則ち東京寄りにある。
 僕たちがここで下車した理由は、名物のとろろ汁を食す為である。
丁子屋外観
 この辺りは東海道五十三次のうち「鞠子(丸子)宿(まりこのしゅく)」があった所で、駅からタクシーで店に向かう途次、運転士さんが旧街道跡や本陣跡の前で車を徐行してくれた。
 目的の丁子屋(ちょうじや)さんは、どのガイドブックにも必ず掲載されている老舗であり、11時の開店を前に、既にして店の中は客で一杯だった。ただ、座敷は増築によって広くなっており、この程度の客数なら充分に入れるとの事だったので、安心して旧家の造りになっている店内を見て回る。
 藁葺き屋根が美しい外観はもとより、店内にも、昔実際に使われていた駕籠や宿帳が展示されており、実に興味深い。僕は最近、歴史の大切さや面白さに目覚め、中でも交通史の重要性を感じているので、こうした展示は嬉しいのだが、他の客たちは時間を持て余しているようである。
丁子屋の座敷。欄間に絵図が掛かっている
 開店時刻になって、僕たちは座敷に案内された。ななな氏たちがまだ来ていないので注文する訳にはいかないが、4人分の席を確保しておく。
 座敷は30畳以上はあろうかという広さで、こぢんまりした外観からは想像できないものであり、欄間には広重の東海道五十三次絵図が掲げられ、クーラーが効いていて過ごしやすいが、ここに昔の旅人の姿を感じるのは誤りであろう。あくまでも僕の想像だが、昔は店の前の床几に旅人が座り、出されたとろろ汁をかき込んですぐにでも旅程を再開したのであって、座敷に上がって悠長に味わうというような事は、殿様やその付き人あたりでないとできなかったに違いない。
 漸くななな氏らが到着し、とろろ汁の定食である「丸子」(\1380)を注文する。少々値が張るが、味はお墨付きなので目を瞑る事にする。
これがとろろ汁だ!
 注文して1分と経たないうちにお櫃や薬味、香の物が運ばれてきた。しかし、ここで「予め作ってあった物を出すなどけしからん」と言うのは早計である。何故というに、元々この料理は、街道を往く旅人たちに振る舞う為のものであった。旅人たちは先を急がねばならず、注文してから5分も10分もしてからでないと出せない料理ではものの役に立たぬのだ。「いらち(イライラしやすい性格という意味の大阪弁)」の大阪人や喧嘩っ早い東京人が多い街道で、グズグズしている暇は無かったろう。作り置きしておいても美味い、それがとろろ汁最大のコンセプトなのである。
 例によって、宮脇先生の名文で、その味をお楽しみ頂こう。
「自然薯を白味噌とカツオだしでうすく溶いた汁を、米四分に麦一分ぐらいの御飯にかけて食べるのである」(「徳川家康歴史紀行5000キロ」より抜粋)

 朝が早かったので朝食を充分には取っていない事もあり、僕は空腹で、皆が2杯目のお代わりをする時、既に3杯目を食べ終えるくらいであった。結局、僕は4杯、こまうさぎ氏も2杯半を平らげたが、ななな氏カップルは僕たちに気圧されたのか、かなり少食であった。
 腹も朽ちくなって安倍川駅に戻り、いよいよ大井川鉄道の発着する金谷駅へと向かう。
 さて、ここでななな氏カップルについてお話ししておこう。ななな氏は今年28歳、こまうさぎ氏と同じ都内のある小学校に勤務している事は先にも触れた。彼氏のたむたむ氏はななな氏より2歳年下で、法学部の大学院に在籍し、社会問題の研究などをなさっている。
 僕は当初こまうさぎ氏から、2人が実にマジメで、関西人である僕の下らない冗談など殆ど解さないのではないかという話を聞いており、これは、いつものようにバカな話ばかりする雰囲気にはならないに違いないと、一週間程前から、たむたむ氏が研究されている分野の本に目を通し、大井川の地理・歴史にも少し明るくなっておき、いつどんな難しい話をされてもある程度の受け答えができるようにしていたのだが。
 事実は、この2人、僕らより余程バカップ……いやいや、面白いのではないかという結論に達した事を、先に述べておく。
これが牽引機・C11型蒸気機関車だ
 金谷に着いた僕たちは、早速大井川鉄道のホームに向かった。
 今日の行程は、ここから途中の千頭まで行き、バスに乗り換えて寸又峡温泉に宿泊するのだが、その千頭までの列車が、蒸気機関車牽引の客車列車、「SLかわね路号」である。
 大井川鉄道は非常に面白い鉄道会社である。と言うのも、日本中の鉄道会社から、不要になった旧車を安価で譲り受け、走らせているのである。
 老朽化した列車を譲り受けて走らせると事そのものは決して珍しい事でなく、地方の鉄道会社ではよく見受けられる事だ。近江鉄道が西武鉄道の旧車を、長野電鉄が京王電鉄の旧車を走らせているなど、例は枚挙に暇がない。
新金谷車庫から金谷まで列車を牽引してきた電気機関車
 ただ、「日本中の」となると話は別で、大井川鉄道では、関東・関西の大手私鉄会社の老朽車を少しずつ集めて走らせているのである。その為、普通なら鉄道模型でしか実現しない、近鉄と南海の列車交換風景なども、大井川鉄道では日常茶飯事なのである。しかもそれらは、親元の鉄道会社では廃車になって久しい形式なのであるから、如何にその光景が鉄道ファンにとって魅力的かは、ご想像に難くないだろう。
 しかも、大井川鉄道は蒸気機関車の保存にも力を挙げている。最近では、日本各地に臨時列車として蒸気機関車牽引の列車が復活しているが、大井川鉄道では、蒸気機関車牽引の列車を定期運行しているのだ。こんな例は他に全くない。
先頭に君臨するC11
 切符を購入し、早速列車に乗り込むが、その前に列車全体を検分しておきたい。
 僕たちが乗るのは、最後尾に連結された荷物車半分、客席半分のオハニ36である。今はそのさらに後ろに、同じぶどう色に塗られた電気機関車が連結されているが、これは隣の新金谷駅にある車庫から、金谷まで編成を回送してきた補機であり、営業運転中のかわね路号には連結されない。
 その前2輌が青色のスハフ43、その前にぶどう色のオハ35がつながれており、牽引機のC11型蒸気機関車227号機が先頭に君臨している。
 発車ベルが鳴り始めたので席に戻る。車輌の後ろ半分が荷物室なので、定員は40人程度だろうか。しかし、半車が荷物室という車輌など、もう現存しているのは数少なく、僕も乗るのはこれが初めてである。
黒煙朦々と邁進する
 12時37分、定刻に金谷を出発した。線路は、暫く東海道本線に併走した後、左に大きくカーブを切って新金谷駅に到着する。ここは大井川鉄道随一の車両基地であり、数多くの名車たちが体を休めている。折しも、京阪特急3000系と対向した。この形式も、京阪電鉄では消え去って久しい車種であるが、赤とオレンジのツートンカラーという塗装は現役の列車に受け継がれている。
 新金谷を出て3つ目の五和(ごか)駅を過ぎた辺りから、線路は大井川に沿い始める。そして、沿い始めたが最後、このまま終点の井川まで、線路はずっと大井川沿いを縫うように走るのだ。
 車内には無論、冷房など付いていないが、開け放った窓から吹き込む風で充分に涼しい。冷房が付いている代わりに窓が開かない車輌より、どれだけ有り難いか分からない。
神尾駅には狸の駅員たちが
 幅広く、時に蛇行しながら流れる大井川は、今でこそ幅の割に水量が少ないが、これは上流にダムができて農業用水・生活用水が取水されてしまっているからである。往時の大井川はもっと水量が多く、それこそ、渡し屋に頼まねば渡れるものではなかった。江戸への「入り鉄砲・出女」を禁じる為に橋を架けなかったと聞いて、「こんなの、川の中を歩いて渡れるじゃないか」という感想を抱いた方は多かろうが、それはあくまでも、現在の大井川の姿を見てこその感想なのである。またこの事は、日本中の殆どの川について言える事である。
 そんな蘊蓄を皆に話しているうち、列車は川を遡行し続け、僕らが乗っている列車の名の由来にもなっている川根町に入った。
 この辺りから、大井川は数多くの支流を四方八方に張り巡らせながら流れる。
山腹にまで広がる茶畑
 トンネルの内壁も、殆どがコンクリートで覆われているものの、一部は素掘りのままで、発破によって穿たれた荒々しい岩の表情が、暗い窓の外を流れていった。雰囲気は早くも山岳鉄道である。
 さすがの大井川も、徐々に川幅を狭め始め、青空を背景に、対岸の山腹に広がる茶畑が実に色鮮やかである。静岡が茶の大産地である事は言うまでもない。
 大井川付近はデービスの侵食輪廻で言うところの地形年齢が古いので、川はこれでもかとばかりに蛇行しながら流れる。また、一本の川が複数本に分かれて流れる(網状流路)傾向も顕著になってくる。
ガラスが汚れている訳ではない
 川根温泉笹間渡(ささまど)駅の手前で大井川を渡った時、僕は皆を促して、窓から顔を出し、蒸気機関車が吐き出す煙の香りを存分に楽しんでもらった。石炭を燃やした煙の匂いは特有のもので、蒸気機関車の牽引する列車に乗ったからには、これを嗅がなくてはならない。開け放った窓からは、時折煤煙も飛び込んでくるが、それが目に入ると痛いしなかなか取れないので注意するようにも言った。
 当初、ななな氏カップルは蒸気機関車になどあまり興味が無いと聞いていたので、僕などは見ているだけで気分が高揚する蒸気機関車であるけれど、やはり多くの人にはこの感動が通じないのだろうかと不安になったが、この懸念は杞憂に終わったようである。尤も、多くの人に通じるか否かが分かった訳ではないが、少なくともこの場に於いては不必要な心配だったらしい。
千頭駅で停車中のC10型機
 塩郷で、大井川に架かる吊り橋の中でも最長の220.4mを誇る大吊り橋をくぐり、駿河徳山では近鉄吉野線を走っていた16000系と対向し、終点千頭には定刻の13時58分に到着した。
 まだ先に未乗路線が続いているので乗ってみたいのだが、次の列車は15時20分まで無いし、それに乗っても終点の井川までは行かず、途中の接阻峡温泉止まりなので仕方ない。今日はここでバスに乗り換え、寸又峡温泉へと足を向ける。
 しかし、僕は持参金が底を突きかけていたので、皆が駅舎内にあるSL資料館へ行っている間に、一っ走りして千頭郵便局まで行った。しかし、ここでたむたむ氏を誘っておかなかった事が、後々一大事に発展するのだが、この時は誰にもそんな事など、知る由も無かったのである。
アプトいちしろ駅遠望
 15時発、寸又峡温泉行きのバスは大型が2台待機していたが、満席であった。寸又峡はかなり交通の不便な場所にあるので、自家用車で来る観光客が少ない為であろう。
 バスは10分程、井川線の線路に沿って走った後、奥泉駅の先で左に折れ、急な山道を登り始める。ヘアピンカーブが連続するが、運転士は巧みなハンドル捌きでクリアする。
 途中、アプトいちしろ駅が俯瞰できるポイントでは、運転士がバスを徐行し、ダムの畔に停まる赤と白の電気機関車が見えると解説した。僕も皆に、明日はあれに乗って井川まで行くのだと解説する。
 間もなくバスは峠を越え、道も下り坂になった。朝日岳(標高1827m)や寸又川の流れが見え始めると温泉郷は近い。僕たちは終点の寸又峡温泉停留所の1つ手前で降車した。
聳え立つ朝日岳
 ななな氏とこまうさぎ氏が予約してくれてあった民宿に荷物を置き、早速散策に出掛ける事となった。目的は、寸又温泉郷のさらに奥に架かる「夢の吊橋」で、そこまでの道中も、素晴らしい風致であるという。宿の人に依れば往復1時間半掛かるとの事だが、まだ16時前なので問題ない。食事の時間までには戻って来られる。

 さて、ここで僕たちは一つの取り決めを行った。4人は今日初めて顔を合わせたばかりであるから、会話などはどうしても他人行儀になってしまう。それはいけないというので、この散歩中、敬語で話す事を禁止しようという事になった。ただ、禁を犯した回数に応じて罰ゲームも課されているので、油断はできない。
 まず好調に回数を伸ばし始めたのはたむたむ氏である。あっという間に10回を突破し、他の追随を許さぬかのように、一人だけ殿上人になったかのように……見えた。
 しかし、それでは済まないのがこういうゲームの悪質なところである。皆が敬語禁止に慣れてきた辺りで、新たに禁句を追加する事になった。追加されたのは相槌の「うん」。その時、最も回数の少なかったこまうさぎ氏を貶める為に僕が発案した禁句だったのだが、これで大いに場を盛り上げてくれたのがななな氏だった。僕が
「今日は暑いねぇ」「うわぁ、だんだん谷が深くなるなぁ」
などと、実に態とらしく言うトラップに、一々「うん」「うん」と墓穴を掘ったりしてしまい、僕は得たりや応という感じだったが、ななな氏はあっという間にアウト回数20回を突破した。
 挙げ句の果てには、彼氏のたむたむ氏が親切心から
「もう、何も喋らない方がいいよ」
と言ったのに対し「うん」と返事してしまうなど、もう誰にもななな氏を止める事はできない。

 しかし、こまうさぎ氏は気付いた。失言王を自認する碓氷峠の夏のアウト数が、やけに少ないのである。
 理由は、禁句の種類にあった。僕は「むしろ」という副詞を連発するので、敬語と同時にそれも禁止されていたのだが、この語は、使わないでおこうと思えば使わないで済むような性質の語であるから、大してアウト数には貢献していないのだ。敬語では幾度か引っ掛かっているものの、最大の理由は「うん」にあった。
 と言うのも、僕は「うん」などという相槌を滅多に打たないのである。僕の話し言葉は古い大阪方言なので、相槌は「せやな」「ホンマや」「なぁ」などなのである。
 狡猾なこまうさぎ氏は、そこに目を付けた。関東人が「うん」を禁止されるのと同じ事だと、碓氷峠の夏に「ホンマ」禁止を命じたのだ。この巧妙さは、うさぎと言うよりはキツネである。
 以後の僕は凄まじい勢いでアウト数を伸ばした。それまでアウト数1桁を維持し、「うん」でアウト数を稼いだこまうさぎ氏に抜かれて最低回数であったのに、一挙2位まで躍り出たのである(1位のななな氏は、もはや雲の上の人となっており、とても追いつけない)。
 僕もそれなりに対策を講じ、「ホンマや」は相手に対して同意を示す言葉だから「もう皆に対して相槌は打たないよ」と、
「ねぇ、寸又川って大井川の支流だよね?」
「いや」(註:勿論、寸又川は大井川の支流である)
「碓氷君、かなりアウト数増えてきたね」
「いや」
など、何を言われても「いや」と返事するようにしたりしたが、口癖というのはそう簡単に直るものでなく、決め手にはならなかった。
 それどころか、先程のななな氏と同様、僕も「もう、絶対アウトになれへんぞ、ホンマ!」などと見栄を切ったりして、誰の助けも借りずにアウト数を増やしていった。

 このゲームが心理的に与える影響は凄まじいものがあり、帰り道では、あれ程お喋りな皆の口が重くなり、実に静かな集団と化していた。それでもアウト数だけは着実に増えていたから、人間とは賢いのかバカなのか分からぬ動物である。
夢の吊橋を渡る
 ゲームの話ばかりして、景観の話をするのをコロッと忘れていた。
 寸又峡温泉から、さらに上流に向かって歩くと、自動車の進入が禁止された道になる。ここは森林鉄道の軌道跡であり、近くにはトロッコ列車も静態保存されているという。右手の眼下に猿並橋という吊り橋を見ながら歩けばトンネルに入る。このトンネルも、森林軌道の為に掘られたものであり、径が通常の道路用トンネルより小さいのが分かる。それを抜けたところの石清水が実に美味い。さらに足を進めると、前方に「夢の吊橋」が見えてくる。
 夢の吊橋は、大間ダムの湖面に架かる長さ90mの人専用橋で、長さの割には結構揺れるのだが、湖面からの高さは8mしかなく、いざとなれば飛び込んでも何とかなると思われた。
夢の吊橋近景
 現在でこそ、明石海峡大橋や来島海峡大橋、南備讃瀬戸大橋などといった1000m超級の吊り橋が建造できるようになったが、昔は数十メートルの吊り橋でも建設するとなると大変だったに違いない。
 しかし、吊り橋には他の橋にはない最大の利点がある。それは、途中に橋脚が無い為、大水の際にも橋が流される心配がないという事だ。両岸には、ワイヤを緊縛する為の強固な土台が必要となるものの、流される心配がないというのは大きな利点だったであろう。それに、構造が極めて単純なので、修理などの作業も簡単である。
 但し、地形による制約は受ける。あまりに両岸が離れすぎている場合は、ワイヤの耐荷重量の関係から、どうしても途中に橋脚を立てねばならない。
吊橋より大間ダムの堰堤遠望
 両岸が平坦な場合も吊り橋は建設できなかっただろう。何故なら、ワイヤを「吊る」場所が無いからである。両岸が切り立った崖などの場合は、崖がワイヤを吊る場所となってくれるが、片方の岸だけでも平坦になっている場合は、吊り橋はあくまでも「吊られて」いなければならない訳で、その、吊る為の場所が無い為に建設不能なのだ。今なら、何十メートル何百メートルの主塔を建てる技術があるが、昔はそんな技術など無いのは言うまでもない。
 僕は無類の「橋好き」なので、橋梁を見る度にこんな事を考えてしまうのだが、まさかこの場にいる皆にそんな事を話す訳ではない。大体、解説などしていると、そちらの方にばかり気を取られ、罰ゲームの禁句を吐いてしまわないとも限らない。こういう時に難しい話は禁物である。
あっという間に、吊橋が眼下に遠のく
 全員が無事に渡り終え、僕たちはさらに川の上流を目指した。370段もの階段を上ると、夢の吊橋が眼下にか細く遠離る。森林軌道跡のトレッキングコースを上流に向けて歩くと、谷が益々深く刻まれていくのが分かる。
 トレッキングコースは森林軌道跡に沿うので、吊り橋から500m程上流に架かっている飛龍橋というコンクリート製の橋梁で、再び対岸に渡る。この橋梁は森林軌道の為に建設されたもので、長さ72m、高さは70mもある。
 森林軌道は、寸又峡温泉から寸又川を遡り、ずっと上流まで続いていたようであるが、飛龍橋が架かっているのは寸又川でなく支流の大間川である。一体これはどういう事だろう?
中途半端な幅が軌道跡である事を偲ばせる
 鉄道はその性質上、急勾配を上り下りする事ができない。その為、もし寸又川を忠実に辿ろうとすれば、大間川が寸又川に注ぎ込む付近で長さ250m以上の橋梁を架けねばならないだろう。莫大な金が掛かる事は火を見るよりも明らかだ。そこで、わざわざ谷が狭くなる場所まで迂回して大間川を渡り、再び等高線に沿って大間川を下るという経路を取っているのである。
 飛龍橋から下を見下ろすと、遙か下方に大間川の流れがある。さすがに70mは高い。大鳴門橋で平均海面からの高さが45m、来島海峡大橋でも65mだから、その高さを伺い知る事ができる。さらに、少し上流では右岸が幅約50m、高さ約100mに亘って地滑りを起こしていたりするから、かなり迫力がある。
飛龍橋より、70m下の大間川を見下ろす
 軌道跡の道は、落石がゴロゴロしていた。上方を見ると、崖には金網が掛けられ、岩肌には太い鉄骨が打ち込まれて落石防止対策が打たれているが、果たしてどこまで役に立つものか分からない。道の傍らには、1トンはあろうかという岩石が無造作に転がっているが、無論これは遙か上方の岩肌から滑落してきたものだろう。果たしてこの岩と同等の重量を持つ落石があの金網にぶち当たったとして、破れないものかと思う。

 漸く宿に帰り着いた時、アウトの回数はななな氏がトップで実に35回、2位が「ホンマ」で回数を稼いだ僕で23回、前半好調に飛ばしていたたむたむ氏は21回、なかなか引っ掛からなかったこまうさぎ氏は14回であった。宿の玄関を入った瞬間までが罰ゲーム期間だったので、僕は宿に転がり込むなり「ホンマに疲れた〜」と言った。
森林軌道跡沿いに残っていたレール
 疲れを取るべく、飯の前に温泉に入る。民宿なので、さして大きい風呂ではなかったが、掛け流しのアルカリ泉は実に心地よかった。
 全員浴衣に着替え、広間で食事を採る。メインは猪鍋で、4人で1つの鍋を突く。山菜の天ぷら、ヤマメの塩焼き、鹿刺し、ヤマメ甘露煮なども美味かった。
 さて、この辺りから皆が本領を発揮し始める。とても素でやっているとは思えない出来事も数多かった。その1つが「たむたむ氏の浴衣事件」である。「事件」と言っても別に重大なものではなく、たむたむ氏はどういう理由からか、浴衣を全く裏返しに着てきていたのである。場の全員が気付き、着替えるようにも言ったが、たむたむ氏は平然と食事を続ける。しかし、後方にいたおかーさん軍団にまでダメ出しされてしまい、さすがに部屋へ戻って着替えてきた。たむたむ氏は、別に酔っている訳でも、またボケをかましたかった訳でもない。という事は必然的に、これが彼の日常であるという結論が導かれる。
まずは吹き出し花火で
 食後は、近くの空き地で花火をやる事になった。この花火は、たむたむ氏が筑波から直々に持ってきたものである。それも、手に提げて。
 花火セットは、大安売りで千円だった割には、縦1メートル、横60cmくらいの巨大な袋に詰められたものであり、僕たち4人が数時間も楽しめるだけの量だったのであるが、たむたむ氏はこれを、別に袋に入れる訳でもなく、そのまま運んできたのだ。丸子の丁子屋で出会った瞬間、僕は挨拶よりも何よりも先に「どんだけ大きいねん!」とツッコんでしまった程である。つまり、花火セットはたむたむ氏本人より異様なまでに目立ち過ぎていたのである。さすがに見かねた僕は、バックパックの中に入れる事にした。僕のバックパックは、やはり1泊2日の旅とは思えない大きさなので、この花火セットをも呑み込む事ができる。
最後はやはり線香花火
 そうして運んできた花火に、次々と火を点けた。静かな山間には光が少なく、花火の灯りが一際目立つ。
 静寂を破ってはならないので、音の出るものについてはやらない事にした。しかし、手持ちの吹き出し花火なども多数あって、充分楽しめたのだが。ここでも、話はこれで終わらないのである。
 音の出るものはやめておこうと言った矢先、ななな氏が何とロケット花火を普通の花火と間違えて点火!当然、周囲には4人が半径1m以内に集まっている。それも、下向きに持った状態で火薬部の先端に点火したので、次の瞬間、下向きに発射されたロケットが地面で炸裂。猛烈な爆音が辺りに轟いた。
 因みにロケット花火の正しい点火方法は、瓶などに上向きに差し、導火線に点火して素早く3m以上離れる、だそうだ。
 しかし、この暴発事故がとんでもない「災い」をもたらした。僕以外の3人は、あくまでも根が大真面目な人間なので、この暴発事故の後、吹き出し花火・打ち上げ花火の前には、全員が花火の説明書を注意深く読むようになってしまったのだ。これ自体は別に仕方のない事なのかも知れないが、1つの花火の説明書を携帯電話の灯りで丹念に読むものだから、1つの花火が終わってから次の花火に点火するまでに、2〜3分の時間が必要になる。
 さすがに間が延びて仕方ないので、いい加減な性格の僕がとても耐えられなくなり、間もなくこの事態は止んだ。
 大体、最近は乾燥剤や入浴剤の小さな袋にまで「食べられません」「万が一飲んでしまった場合は、速やかに医師による診断を受けて下さい」などという説明書きが為されているが、どう考えてもこれらは必要でない。
 PL法の施行によって、こうした無駄な事が往々にして行われている訳だが、常識のある人間なら、もし乾燥剤や入浴剤を口にしたとしても、その味覚・発熱・発泡などに気付いてすぐ吐き出すであろうし、万が一……と言うよりも億が一、飲んでしまった場合も、医師の診断を要する状態にならない訳がない。想像してもみてもらいたい。胃の中でシリカゲルが水分と反応して熱を発し、炭酸水素ナトリウムが胃酸を触媒として二酸化炭素を発生し続けるシーンを。そんな化学反応が体内で起こっていながら、「今日は体の中からポカポカするわ」「やけにさっきからゲップがよく出るな」などと言いつつ普通に生活を続けられる人が居たら、それこそスゴイではないか。
 ただ、ななな氏がロケット花火を下向きに発射した事件の直後にこんな事を書いても、舌鋒が鈍い事甚だしいだろうが。

 部屋に戻って団欒しつつ、罰ゲームの執行に入った。罰ゲームの要領は至って簡単で、罰ゲームをする人が僕お手製のサイコロを振り、そこに書かれている内容の話をする、というものである。内容は「やってもーた話」「初恋の話」「失恋の話」など。また「他の人にあげる」の面もあり、これが出ると、やはり僕お手製の正四面体のサイコロを振るが、このサイコロには僕たち4人の名が書かれており、名が出た人に罰ゲーム1回分をプレゼントする事ができる(但し、自分で自分にプレゼントしてしまう可能性もあり、現に何度かそれが起こった)。
 ななな氏が誤ってたむたむ氏のメルアドを着信拒否登録してしまった話、たむたむ氏の趣味・フットサルでの失敗談、こまうさぎ氏が今夏久米島で溺れた話、僕が水泳部時代に経験した数々のバカ話、どれもこれもかなり笑えたのだが、まさかここでそれらを紹介する訳にはいかない。あくまでもこれは紀行文だという事を忘れて頂いては困る。
 爆笑の夜は更け、僕たちは眠りに就いた。車など通らない山間なので騒音もなく、深い深い眠りであった。


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タイトル背景90‰の急勾配を後押しするED900型電気機関車
背景日本最急・90‰の勾配標