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3日目 黄金道路から釧路湿原へ 襟裳の夜は、あっという間に明けた。充分に夕食を食べた事もあろうし、ゆっくりと湯に浸かった事もあってか、僕は存分に熟睡し、朝を迎えた。食堂に降りていき、腹ごしらえをする。 さて、食後、おかーさんが鉄道ファンの僕に見てもらいたいものがあると言って、海苔か何かの箱を持ってきた。開けてみると、これは驚いた、昭和40〜50年代の日本各地の記念乗車券、入場券などが、ギッシリと詰まっていたのである。おかーさんの説明を掻い摘んで説明すると、これはまだ民宿仙庭がYHで、北海道への観光客も多かった昭和40年代の常連さんの物なのだという。それが何故ここにあるかと言えば、その方はその後も日本に飽き足らずに世界を股に掛けて旅していたが、ふとした事から病床に就いてしまい、若くして亡くなられたのである。これはその人の形見で、遺族が持っていても価値があるのかどうか分からないので、こちらに預けられたとの事。しかし、おかーさんとて、これが一体如何なる物なのか、見当が付くはずもなく、今回、僕に見せてくれたという訳だ。 箱3つに分けて入れられた切符は、目測300枚はある。僕も、人一倍あちこちに旅している方だと自負しているが、そんな僕でも、よくもこれだけ集めたものだと思う。 さらには、DISCOVER JAPANの懐かしいスタンプ帳 (……懐かしいとは書いたものの、僕は当時まだ生まれていない)、旅日記なども出てきた。僕は「相場は難しいのですが」としながらも、この箱3つの価値を「5万円は遙か越えるでしょう」と予測した。 本当ならばその旅日記に目を通し、往時の旅と、偶然にも出会ったこの故人に思いを馳せたいところなのだが、何分時間がない。乗る予定のバスは11時15分発なのだが、これを逃すと次は15時までバスが無い。いくら行き当たりばったりな旅が好きな僕でも、さすがにこれは逃せない。ここまで浮世離れしたダイヤには、僕のいい加減な性格では敵う訳がない。 こまうさぎ氏と身支度を調え、襟裳岬まで送ってもらう。今日も風は強く、特に岬の突端では猛烈な強風が吹き荒れている。僕たちは駐車場でおかーさんの車を降り、まず灯台に向かったが、歩く事さえままならぬ程の突風が吹く事もあるので、注意せねばならない。僕は肩からカメラバッグを提げているが、もしこのバッグを落としてしまっても、まず真下には落ちないと思われた。雪は降っていないが、至る所で風の渦ができ、積もった雪が舞い上げられている。岬の冬は、風との戦いだ。 日は照っているし、気温もさして低くはないと思うのだが、何しろ猛烈な風のせいで、体感温度はかなり低くなっているだろう。寒さ対策は完全なのでそれは問題ないが、顔だけは出ているので、感覚としては分かる。 灯台と岬、それに森進一の「襟裳岬」の歌碑をバックにして写真を撮ったが、これも大変である。普段なら、カメラをどこかに置いて、二人で写真に写るという事ができるのだが、今そんな事をしたら、カメラが吹き飛ばされてしまう虞がある。 だんだんと寒さが凍みてきたので、「風の館」の中に逃げ込む。ここは、襟裳岬の自然について、風を中心に紹介しており、例えば「颪」の定義と日本各地の颪と名の付く風の紹介や、日本各地の風の呼称を2135も集めたパネルなど、様々な展示がある。風についての他には、襟裳岬のすぐ近くにある百人浜の漂着物 (ロシア語やハングルが書かれた瓶、気象庁の観測気球、イカ釣り船の電球、貝殻など) や、アシカ・アザラシの生態などもパネル展示されている。 しかし、最大の見物は、襟裳岬が一望できる展望室だ。階段状になった部屋からは、広い窓を通してどの席に座っても襟裳岬がよく見えるようになっており、最前列には望遠鏡も据えられている。この望遠鏡で、今の季節は岬にやって来ているゼニガタアザラシを見る事ができるのだ。受付で聞いたところに依れば、今日は8頭の上陸が認められているとの事だが、いざ僕が望遠鏡を覗いてみると、いるわいるわ、8頭どころではない、20頭弱のゼニガタアザラシを視認できた。尤も、8頭というのは朝方に数えた数字で、昼になるにつれて上陸頭数は増えるそうだし、僕の20頭には、波間を泳いでいて上陸していないものも含めている。 10時半を回ったので民宿に電話を掛け、おかーさんに車で迎えに来てもらう。年末であるからか観光客の姿は無く、結局襟裳岬で出会ったのは、受付の女性2人と、ゼニガタアザラシ20頭弱だけであった。カルマン渦がデザインされた通路を抜けて駐車場で車に乗る混み、風の館、そして襟裳岬を後にした。 宿に途中で僕だけ降ろしてもらい、襟裳岬郵便局で旅行貯金する。岬から少し離れるだけで風の強さは全く異なり、この辺りは岬から1kmちょっとしか離れていないのに、殆ど風が吹いていない。 旅仕度を終え、部屋を出る。宿の前で一緒に記念写真を撮ろうという僕らに、おかーさんはどこからか、巨大な大漁旗を出してきた。真っ赤な地に白文字が抜かれた、所謂ところの大漁旗である (何故か「山形漁業部」と書かれていたが)。その旗を持って一緒に記念撮影し、さて、僕たちがバスに乗り込んだ、その時! おかーさんは車道に飛び出し、そこで猛然と旗を振り始めた。後ろから車が来ているのを知って知らずか、長い直線道路が終わって僕たちのバスが丘陵の陰に隠れるまで、おかーさんの旗が止まる事はなかった。きっとおかーさんは、この民宿仙庭を始められた時から、この方法で多くの宿泊客たちを見送ってきたのだろう。時代が移って、今やどこの民宿でもこんな見送りをする所は、まず無くなったが、そこに、日本がまだ元気だった時代を重ねて見ない訳にはいかなかった。 旗を振るおかーさん、日本中で記念乗車券や入場券を集めてきたコレクターの青年、様似から延伸して広尾までつながる事を疑わない人も多かった日高本線計画、シーズンオフでも繁盛するYH。 あんなに元気が良かった日本はどこに行ったのだろう。同じ世代を見ていて、また、この世代から見ていて、 バスは百人浜の側を通り、単調な海岸線を車窓に映しながら走って行く。百人浜の名は、縁起でもないのだが、その昔、沖合で難破した船の溺死者が、この浜に多数流れ着いたところに由来するという。沖を流れる海流と沿岸流との関係で、この浜には非常に漂着物が多い。先程の「風の館」に漂着物が展示されていたのは、故無きではないのだ。枯草が一面を覆う辺りには、所々にしか雪がない。今年は特に少ないようだ。海岸線に沿って砂州が発達し、小さな海跡湖が幾つも出来ている。 その名の由来は至って簡単で、夕陽が黄金色に輝くというのでもなければ、大豊漁続きで付近住民が大成金になったというのでもない。この道路を造るのに、莫大な費用がかかったからである。開通したのは昭和9年の事だが、その後幾度も高潮によって破壊され、その度に道路改修や護岸工事に、さらに莫大な費用が注ぎ込まれている模様である。 これだけの費用をかけるなら、鉄道の一本でも通してやれよと思う。鉄道ならば、必要な面積は道路の半分以下で済む為、道路と同じ工費をかければ、立派な護岸や隔壁を建造する事が可能だろう。たったの33kmなのだから、対向箇所は途中に3箇所もあれば充分であろう。現在の技術ならば、それらを岩盤に覆われた箇所に造る事など容易であるから、波の影響も心配なくなる。 しかし実際は、誠に計画性のない、悲惨な光景が広がっている。僕は眠り始めたこまうさぎ氏を残して運転席のすぐ後ろの席に移動し、黄金道路の実態を目に焼き付けた。 まず、使われなくなったトンネルが至る所に打ち捨てられている。つまり、昔は使っていたのだが、そのトンネルがあまりに海沿いにある為、前後の区間が荒波による破壊を受けやすく、やむを得ず、後からもっと山側により長いトンネルを掘る事になった、というのがダイジェストの歴史である。全く、非計画的としか言いようがない。鉄道ならば、まず間違いなく廃止の憂き目を見ている事だろう。それを、道路であるが故に、大きな反対運動もなく何度も何度も改修に改修を重ねているのだ。金を掛ける場所が下手過ぎはしないかと思う。 その捨てられたトンネルも、貫通から半世紀経っているとか、煉瓦造りで強度に問題がある、などというのならまだ納得できなくもないが、見てみれば立派な鉄筋コンクリート製のものである。貫通から20〜30年さえ経ていないのではないかと思う物が殆どであった。一体、どれ程の先見性の無さが、こうした無計画を産み出すのだろう? 何度も「覆道」という、聞き慣れない、またパソコンでも変換できない名前のトンネルを通る。これは何かと言えば、崖崩れや高潮から道路を守る為、人工的に道路に頑丈な覆いを被せたものである。直立した崖の真下を道路が走っていたりするので、それだけの物が要るのだろうが、一体いくらかかったのかと思う。それも、一本の覆道が大変な長さであり、それが何本も何本もある。 初めは黄金道路の名に恥じないなと、皮肉半分に思っていた僕だが、仕舞いには、あまりのやりきれなさに前面展望する事を生理的に拒絶するようになり、元の席に戻った。もう僕は、自動車道路を造る事の是非など問うまい。しかし何故、これだけの無駄をしでかすのかという事には、いくら説明を受けても絶対に納得がいかない。 気を取り直して、車窓に目を移す。無駄に腹を立てさえしなければ、車窓風景には昆布を天日干しにする港町や、ゆらり揺れる水面に浮かぶ水鳥、急崖から道路にまで水飛沫を飛ばして流れ下る滝などが映ってゆく。 今までになく幅の広い広尾川を渡ると、このバスの終点・広尾の街は近い。 広尾は先述の通り、旧国鉄広尾線の終点の駅があった街であり、十勝港という大きな港を擁する。鉄道が通っていた頃の地図を見てみると、広尾駅は実に立地条件の良い場所にあり、今でも広尾駅がバスターミナルとして健在な理由がよくかる。 しかし、廃線当時の広尾線には、広尾まで来る列車が1日に6本しかなかった。昭和62年2月1日、国鉄の廃線ラッシュが最も盛んなこの時期に、広尾線は全線開業から55年という、鉄道としては決して長いと言えない生涯を閉じる事になる。廃線から数年間は、広尾駅に数輌の列車が留置されていたらしいが、今ではそれもなく、線路の跡も埋め立てられて駐車場になっている。何とも悲しいが、廃線跡をそのままにしておくほどには北海道も広くないのだろう。 しかし、駅舎は往時のまま保存され、バスの待合室となっているだけでなく、駅舎内には広尾線を紹介するパネルが展示され、鉄道模型のレイアウトも置かれている。壁には本棚が置かれ、かなりの冊数の本が置かれていて、ノートに記帳すれば貸し出してもらう事もできる。さらには、広尾線全駅で廃止当時まで置かれていたスタンプが、一同に会しているのだ。こんな廃駅は見た事もない。 旅行貯金をしてきてから、ノートにスタンプを捺し、管理人さんから鉄道の硬券そのものの形をしたバスの乗車券を買う。「これって、記念にもらえないですか?」と訊くと、「いいですよ」と仰有って下さり、それだけでなく、既に乗り場にいたバスの運転士に「切符、記念に欲しいそうだから」と伝えておいて下さった。こうした気遣い1つで、土地の印象は大きく変わるものである。僕は、何年後になるか分からないけれど、また広尾を訪れたいと思った。 12時42分の定刻にバスは発車した。広尾の街を出外れる頃に海が見えたが、これで長らく併走してきた太平洋とは暫くお別れし、一気に内陸の帯広まで北上する。このバスは、旧広尾線とほぼ同じコースを走るので、沿線には廃線跡もちらちらと見え隠れする。 車窓は一転、崖と海から広大な十勝平野の雪原へと変わった。雪のない季節ならば、何が植えられているのかと観察もできるが、この季節ではジャガイモ畑も大豆畑も、区別が付かない。歴舟川を越えて、右手には山頂に一本の樹が立つモイワ山を見ながら大樹町を出ると、サイロと厩舎、防風林以外は全て純白という景色になる。 さすがに僕も眠気を催し、お昼過ぎの陽気も相まってぐっすりと眠りこけてしまった。そのせいで、是非見たいと思っていた愛国駅や幸福駅の跡地を見る事ができなかったが、やむを得ない。 15時前、帯広駅の少し手前で下車する。これは、こまうさぎ氏が行きたいと言った六花亭の本店を、僕が駅の南側にあると勘違いしていた為で、本来なら帯広駅まで乗るべきであった。旅行貯金などしてから駅に向かって歩き、駅ビルを素通り、そのまま僕は何度も歩いた「帯広停車場線」という道路を歩く。 僕は帯広で降りる度、六花亭の本店に足を運び、特に抹茶ホワイトチョコレートを多く買っているのだが、未だに本州まで持って帰ったのはほんの数枚である。殆どは、帰京する前に僕の胃袋に収まる事になる。 駅への帰り際、帯広の地図を頭に思い浮かべる。帯広は典型的な屯田兵村の名残を留める都市で、札幌や旭川と同じように、計画されて引かれた真っ直ぐな道路、直角に交わる交差点が特徴的だが、その殆どに信号があるのも特徴と言えば特徴だろう。よくもこれだけ信号を取り付けたなと感心する程の密集具合であり、通りを見通すと呆れる程の信号が目に飛び込んでくる。近くの小学校に、余程交通安全に五月蠅いPTA会長でも居たのだろうか? 駅前にあった電光式の温度計を見てみると、気温はマイナス6℃であった。しかし体が慣れてしまった為か、防寒対策をしているからか、それ程寒くは感じない。道産子は「本州の方が寒く感じる」と言うらしいが、何となくそれが分かるような気がした。 16時19分発のスーパーおおぞら7号で、釧路に向かう。既に外は5分方暮れており、次の停車駅・池田までには完全に暗くなってしまった。 釧路着は17時49分。帯広から約130kmを1時間半で走ったのだから、表定速度は85.5km/h。ディーゼルカーである事を考えれば、如何に優秀であるかが分かる。北海道であるから直線線路が多い事は大きな理由かも知れないが、内地に比べれば道床も頑丈とは言えない中で、この速度を出すには車輌性能・線路保守の面で苦労が要る事だと思うが、それを実現しているJR北海道には敬意を払いたい。 釧路は、うまい駅弁の宝庫である。どの駅弁を食べてみても、北海道らしさや旨さの点で、北海道内に向かうところ敵なしであると思う。釧路は鉄道の要衝地でもあるから、僕は何度も降りた経験があり、その度に駅弁も食べているから、もう殆どの種類を食い尽くしているが、宿に着くまでの腹ごしらえに、1つ買っておこうと「かきべん」を購入した。この駅弁は、ご飯の上にカキとアサリのしぐれ煮が乗ったもので、特に有名という事もないが、僕がこの駅弁を食すのはこれで3回目である。今回はこまうさぎ氏がセレクトしたのだが、彼女の好物は僕のとよく似通っているので、こんな場面が多々ある。 18時19分発の釧網本線網走行きに乗り込み、早速駅弁を食べ始める。車輌はキハ54だが、ロングシートでも平気で駅弁が食べられる僕は別として、普通列車でもクロスシートで運行されるというのは、特に長距離旅行者には有り難い事である。しかも、キハ54の座席はリクライニングが効くから、JR北海道のセンスの高さには、やはり感服する。 昼間ならば、左の車窓に釧路川が流れ、遠矢を過ぎると釧路湿原の雄大な景観が臨めるが、特にこの季節の道東は落日の時間が早い。窓に顔を近付けてみるが、外は闇に包まれて、列車の車内灯が僅かに線路際数メートルを照らしている以外は何も見えない。 18時52分、塘路駅に着いた。夜の無人駅は、独特のムードに包まれる。ホームを照らす裸電球の青白い光が雪に反射して輝き、列車の轍の音がいつまでも残る。月はまだ真ん丸に近く、その光彩を冷たく放っており、誰もいないホームには、やがて静寂だけに支配される。 今夜のお宿は、塘路駅から歩いて2分程の所にある、「とうろYH」だ。規模の小さなログハウス風のYHで、好ましい造りである。 チェックインを済ませると、部屋に入る事もせずに取りあえず飯。さっき「かきべん」を食ったところではないのかと思われるかも知れないが、旅先ではいくらでも腹が減るものなのだ。そうでなくても、僕はYHの夕食だけでは満腹するに足りない。 腹も脹れたところで部屋に入るが、この日は満室で6人部屋の二段ベッドの一段目は全て塞がっている。別に二段目に寝れば済む話なのだが、僕は屋根裏部屋に寝床を敷く事に決めた。屋根裏部屋とは言っても、部屋の中に梯子があり、そこを昇って達する中二階のような場所であり、別に「部屋」という訳ではない。 床面からの高さは約4mで、当然ベッドがある訳ではなく布団に寝る訳だが、僕はこうした空間が大好きなので、早速布団を敷き始める。20kgのバックパックも持って上がってきたので、壁に立てかけておいたが、それでも狭いとは感じない面積である。しかも天窓があるので、部屋の電気を消してみると夜空の星がよく見える。これは快適な空間だ。 21時からは食堂で、塘路周辺の自然や地理、ツアーの案内があるとの事だったので、それまでに風呂に入っておこうと思う。風呂場は家庭用のような大きさで、しかも脱衣所のドアはロックがあるクセに、鍵が無くても外から開くという構造になっている。しかし、そんな事はどうでもよい事であり、丸一日がかり、約280kmの移動の疲れを癒す。 コーヒーを飲みながら案内を聞く。YHでのこうした時間は、他の客との親睦を深める時間ともなる。常連さんにオススメの場所を訊いたり、ペアレントさんから塘路湖の御神渡りの情報を教えてもらったが、これらについては明日の紀行文に書こうと思う。 そうした時間の後、全員で最終の列車を見送るというのが恒例行事らしい。21時48分頃、先ずは上りの最終・摩周行きが入線し、それとほぼ同時に釧路湿原の遙か彼方から下りの最終列車が近付いてくる。塘路駅の付近で釧網本線は、大きく湾曲して流れる釧路川を避ける為に、湿原の東側を迂回して走っている。その為、とうろYHからは駅の2km以上網走側の線路まで見通す事ができるのだ。鉄道ファンを意識したかのような行事なので、ペアレントさんがまさか鉄道ファンかと思ったが、そのような事実は確認できなかった。 2つの光は塘路駅で対向し、反対側へと去って行く。湿原の輪郭に沿った大きな弧を描いて列車は去り、遠く汽笛が聞こえる頃にはその姿も網膜上の一光点に過ぎない程である。後には十七夜の月に照らされた湿原の広大なる闇と、遙かな静けさが残るのみで、塘路駅のホームは、そんな計り知れない闇に自らの存在が没してしまうのを恐れるかのように、皎々と明かりを灯し続けている。 きっと真実はこんなものなのだろうと思う。 この闇を照らし出す事はできなくても、決して明かりを灯す事が無意味な訳はない。 部屋に戻る頃になると、月がいよいよ高く、天窓から青い光を投げかけていた。眩しくて眠れないのではないかと同室の人たちは心配したが、それは杞憂というものである。ガラス一枚隔てて、息も凍り付く氷点下の世界が広がっているのかなどと思考を経巡らせるうち、いつしか僕は月の光に抱かれて、無意識の深淵に引きずり込まれていた。 |
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| タイトル背景 | : | 新夢が丘より、釧網本線を望む |