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第四章 ・ 島唄

 宮古島停泊中に目が覚めた。2004年8月14日、時刻は5時前である。カメラを持って甲板に出てみると、照明灯の明かりの中でフォークリフトやガントリークレーンが忙しなく荷役をしている。月齢は28で、三日月と同じ細さの月が平滑な海面に照明灯より余程薄暗く、その姿を映している。
 この船は宮古島で1時間半停泊した後、石垣を経由して台湾の高雄(カオシュン)まで行く。石垣から高雄までは9時間で、これは那覇までの所要時間と殆ど変わらない。今までは地図上で見るだけだった島々に、刻一刻と近付きゆくのが快い。
 僕は昔から、地図が大好きだった。地球儀の上に引かれた世界の鉄道路線を指でなぞってみたり、ベーリング海峡に海底トンネルを掘ればどうか、或いはオーストラリア大陸とユーラシア大陸を、橋梁と海底トンネルで結べるのでは……などと空想するのは何とも言えず楽しく、今でも時々そんな空想に浸る事がある。
 八重山の島々は僕にとって、長い間、そうした「地図上の島々」だったのだ。そんな遠い存在に足を着け、当に肌で触れんとしている時のこの気持は、なかなか解って頂けないかも知れない。
 特に今日訪れようとしているのは、こまうさぎ氏が特に憧れの強かった竹富島なのだ。石垣島に程近い小さな離島であるが、集落の中には昔ながらの町並が保存され、赤瓦と石垣、未舗装の道をアカバナーが彩っている。
 石垣入港は10時15分であるし、宮古島出航までもまだ1時間弱あるので、寝台に戻って眠った。

 次に起きたのは身支度を調える人のざわめきも高まった9時前であった。こまうさぎ氏を起こし、荷物をまとめてから二人でデッキに出てみた。左舷には先程から石垣島の島影が望まれている。フェリーは石垣島の北側から、反時計回りに島を半周回り込んで石垣港に入港するので、屋良部岳や名蔵湾などがよく見えた。
 到着予定時刻が近付いたが、まだ石垣港に入る気配はない。前方に、濃青に塗られた石垣島のシンボル・サザンゲートブリッジのアーチが望まれているが、船は微速を維持したままで、間もなく到着との放送さえ入らない。防波堤にはみんさー織りの模様があしらわれており、離島との間を結ぶ小型の高速船が幾艘も行き交っている。ヨットの帆も見えた。目を右舷に向ければ、何の起伏もない緑の島がある。竹富島だ、と反射的に感じた。
 10時20分、石垣港の防波堤内に入ったが、依然として着岸の気配はない。特に急がない旅だから問題ないが、すぐそこに見えている(おか)に上がれないというのも、悶々としていけない。空腹でありながら、目の前にある飯を食えないのと同じ気分である。
 10時半前に着岸し、乗客たちは先を争うように下船した。ここから先はパスポートが無いと乗船し続けられない区間であるので、多くの乗客がここで降りた。

 初めて踏む八重山の地であったが、2日前、那覇新港に降り立った時ほどの感動はなかった。同じ沖縄だという事も理由だが、一番大きな理由は、僕は八重山に憧れはあったものの、その対象は全てが離島であり、石垣島そのものには殆ど興味が無かった為である。
 フェリー埠頭からは少し離れた所にある離島への連絡船が出る桟橋まで歩いたが、竹富島への船は毎時0分と30分の出航であり、今はちょうど11時の船が出たところであった。取りあえず、11時半の船のチケットを取ったが、時間があるので近くのファーストフード店に入った。
 ちょうど腹が減っていたところという事でもあるが、これから渡る竹富島には、昼食を供してくれる店など無いのだ。石垣島で食っておかないと、昼飯を食いはぐれる虞もある。憧れの地・八重山に着いて初めての食事がファーストフードとは味気ないが、腹を満たすものでありさえすれば文句は言わない。
 一応の腹は満たし、連絡船に乗り込む。竹富島は石垣島に最も近い離島であり、高速船で10分しかかからない。サザンゲートブリッジを左に見ながら石垣港を出港し、青みがかったエメラルドグリーンの海に波を蹴立てて5分も進むと、もう船窓には竹富島が望まれる。
 竹富島は面積5.42km2で、八重山諸島の主な島嶼の中では最も小さい。隆起珊瑚礁によってできた島なので起伏が極めて少なく、山はおろか丘も無いし川も無い。また、石垣市内から海を隔てて約6kmしか離れていないので、石垣島はすぐそこにあるように見える。
 しかし、島である事が竹富の運命を大きく変えた。間に横たわる海は、近代社会がもたらした悪が竹富に渡るのを防ぎ、今日まで竹富に石垣市内とは異なる文化圏を残し続けたのである。もし竹富と石垣が陸続きなら、間違いなくこの美しい風景はもっと味気ないものによって破壊されていただろう。
 島とはそういうもので、歴史という人類の大きな足跡を留めさせ続けているのは海である。海と共にあるが故、島にはいつまでも底知れぬ魅力が根付き、多くの人々を魅了し、独自の世界を保ち得ているのだ。

 竹富島での予定はこまうさぎ氏に任せておいたので、僕は宿の予約さえしていない。行程全体の責任こそ僕にあるが、竹富島は完全にこまうさぎ氏の自由に組んでもらったのだ。
 こうした事は、今までの僕には考えられなかった。自分の立てた旅程こそが最高だと信じていた為であるが(ここで言う「最高」とは、自分にとって最適であるという意味だ)、こまうさぎ氏との旅を続けるうち、人の作った旅程で旅する事の魅力にも勘付いてきたのだった。
 旅程には人間性が出る。僕は高校時代から、よく人に旅程の校閲などを頼まれた経験があったから分かるのだが、その人の性格と旅程の間には、密接な関係があるように思われるのだ。どういう相関関係があるのかと問われると困るのだが、僕の親友何人かが作った行程を作成者の名前を伏せて見せられても、多分大体は当てられるような気がする。
 頼めば宿の車が迎えに来てくれるようであったが、僕たちは宿まで歩く事にした。赤瓦を乗せた看板に「西表国立公園 竹富島」と書かれている横には、アカバナーが風と戯れている。往来の無い道を、僕たちは島の北東海岸にある港から、島の中央部にある宿まで、ゆっくりと歩いた。島の中央部に向かっているので道は多少上り坂だが、殆ど起伏がない事が良く分かる。
 車になど乗らなくて良かったと思う。

 道端には牧草地があって、牛たちが木陰で暑そうに草を食んでいる。黒い毛皮は熱を吸収するだろうな、せめて夏の間は白毛に生え替わるとよいのに、などといらん事を考えたが、生え替わりの時期は何色になるのだろう、白毛と黒毛が混じり合うからやっぱり灰色だろうかなどと、さらにいらん事を想像してしまったので気持ち悪くなり、思考を停止させた。
 島は南北3.2km、東西に2.7kmで、ちょうどマンボウが立ち泳ぎをしたような格好である。港から集落までは1kmちょっとしかなく、20分程度で着いてしまった。
 こまうさぎ氏が予約しておいてくれた民宿・小浜荘は、伝統的建造物保存地区内にある、沖縄らしい造りの民家を改造した建物で、赤瓦を葺いた屋根上にはシーサーが、あのユーモラスとも取れる姿を晒している。因みに、沖縄の家々がシーサーを置く理由は、魔除けの為と言われており、2匹が対になっているが、実は夫婦なのだそうで、口を開けている方が雄、他方が雌との事だ。これは狛犬にも言える事で、2匹の雌雄で一対である。また、シーサーは家々の鬼門の方向を向いており、各家々によって、その向きが異なるのだそうである。
 歩いてきた労を(ねぎら)われ、部屋に案内されてから、屋外に置かれたテーブルでシークヮーサーのジュースを頂く。シークヮーサーとは、和名をひらみレモンといい、非常に酸味が強い果実である。大きさはキンカンくらいで、まだ青いうちに摘み取って、ジュースにしたり泡盛に入れたり、料理にも搾りかけたりする。尚、シークヮーサーの表記法については、シークァーサーが代表的だが、発音と照らし合わせればこの表記が最適と判断したので、シークヮーサーを採用した。
 ガムシロップを入れても美味しいそうだが、僕は何も入れずに飲んでみる。爽快な酸味に混じって、微かな甘みもある。喉の渇きを癒すには最高の飲み物だ。
 宿帳に名前を書いて、早速出掛ける事にする。自転車を借り、必要な荷物だけ持って宿を出た。保存地区内であるから、道は当然未舗装で、細かい白砂が敷かれている。岩珊瑚の石垣には蔦植物が繁茂し、名は知らぬがピンク色の美しい花が彩りを添えている。
 保存地区を出外れると舗装道路になったが、アスファルトではなくてコンクリート舗装だ。安価で維持も楽なアスファルトを使わない理由は、ハブ対策の為である。夜中、アスファルトでは道上にハブが居ても、黒どうしなので見極めが付かないが、コンクリートなら白いので夜であれすぐに黒いハブの存在に気が付く。
 空は青く澄み渡り、雲は目に映らないほど薄い。起伏のない白い道は屈曲もなく、遠くの緑に続いている。カイジ浜へと続く道に入るとまた未舗装で、自転車は道路の凹凸を逐一拾ってガタガタと大揺れする。
 カイジ浜は島の南西にあるビーチで、竹富島で最も有名なコンドイ浜の少し南に位置する。この浜を選んだのは小浜荘の常連さんの薦めであり、コンドイ浜は浅すぎて泳ぎには向かない事が決め手になった。
 水着は宿で着てきたので、僕などはTシャツを脱ぐだけで海に入れるという格好だ。

 僕は様々な逆境に遭遇し、2003年11月、1年半お世話になった水泳部を辞めたが、1年半の間に何とか人並み以上は泳げるようにならせて頂いた。200mを3分サークルで30本(所要時間1時間半)などという、今から考えればよくやったなぁとしか思えないメニューもこなした。
 そんな訳で、今回の旅では、僕がこまうさぎ氏の泳法のコーチを請け負った。人を教えられるようなレベルではないのだが、人並み程度には上達させられるはず……である。
 こまうさぎ氏は小学校の教諭なので、採用試験の際に練習した甲斐あって50mは泳げるのだが、見たところ、あまりにも無駄な力を加えているようなので、幾つかアドバイスした。
 僕の意見などお粗末なものだから大した事は言えないが、クロールのコツについて記しておくと、人間というものは放っておいても水には浮く。それに、前に進む時には体全体が水から揚力を受けて浮くから、どんな泳ぎ方であれ、基本的には「浮く」為に力を使わなくてよいのだ。力は前進する為に使うものであり、それとて、がむしゃらに手を振り回したところで造波抵抗を拡大するだけだから意味はない。余程早く泳ごうとするのでなければ、手はなるべくゆっくり回すのがよい。特に、少しでも長く泳ごうとするなら、手を早く回すのは禁物だ。できる限り遠くの水面に手を入れ、水の塊を掴んでくるような気持で水をヘソの方へと押し下げる。この時、肘が決して下がってはいけない。high-elbow(肘を高く保つ事)は、泳法に依らず大切な大原則だ。
 キックも同様で、水面をバシャバシャと叩いても推進力にはなり得ない。長い距離を泳ぎたい場合、キックの持つ意味は下半身を沈めない事である。上半身は肺など空気を大量に溜められる器官があり、水に浮きやすいのだが、下半身は骨と筋肉の塊なので水に沈む。上半身が浮いていて下半身が沈んでいると抵抗が大きくなるので、それをキックによる浮力で浮かせるのだ。短距離やスパートの時ならば、キックにも推力を分担させるべきだが、速く泳ごうとしないのであれば、下半身が沈まないよう、適度に水面下で水を下向きに蹴っておくだけで良い。その時、膝が曲がると抵抗がグンと増えるので注意するべきである。膝を曲げてキックする方法もあるらしいが、少なくとも素人にできるようなものではなく、僕は要領を得ていない。
 それと最後に、最も基本的で最も重要な事だが、ストリームライン姿勢を取り続ける事。ストリームライン姿勢とは、人間の体が水中で最も抵抗を受けにくい姿勢、平たく言えば「蹴延(けの)び」である。背筋を伸ばし、手は真っ直ぐ上方に伸ばして頭の後ろにピッタリと付ける。足は揃え、膝や爪先も伸ばす。この姿勢が水中に於ける基本姿勢と考えて頂きたい。あとは、この姿勢を崩さぬように手や足を適度に動かすだけ。何度も言うが、速く泳ごうとしないのなら力は要らない。力が必要だという事は、どこかに不必要な力みがあるという事である。

 そんな事を要約しながらこまうさぎ氏に伝えたが、その甲斐あってか、それともこまうさぎ氏が沖縄の海のおかげではっきりと体得したのか、この日は浮き輪を必要としないまでになった。
 カイジ浜には、海岸線から数十メートルの所に岩ばかりの島がある。島とは言っても、満潮時には頂部1m程しか水上に出ないような、大きさも10mちょっとくらいのものであるが、この島の周囲が多くの生物たちの住み処になっていた。僕たちがカイジ浜に行った時点では潮が引いており、歩ける深さのところを通ってでもこの島まで行けたので、こまうさぎ氏を伴って島の周囲を潜って眺めた。
 海草の葉を隠れ蓑として生きる小魚が群れている。当に熱帯魚で、青く光る体、透明なヒレ、そこに黄色の美しい模様が入っている。近くに居た人が、浜の売店で売っているソーセージを餌としてやったら、隠れ蓑の海草を離れて餌に向かってまっしぐらに泳ぎ、おちょぼ口で必至に食べる。頬笑ましい姿だが、生存競争の厳しさを見ている訳でもあり、我が人生も結局はこういった姿なのかと無常でさえある。
 名城ほどナマコは居ないが砂はあくまでも清浄で、水の透明度も高い。

 時が移るにつれて、だんだんと潮が満ちてきた。島にも、浜との間の海を渡って帰れなくなる危険を感じたのか、人が少なくなった。潮流も速くなってきている。
 僕たちも一旦は浜に引き上げたが、いくら大潮とはいえ、沿岸の流れはそれ程でない事が分かってきたので、その後も何度か島を訪れた。途中に足の立たない海域があるが、そこさえ乗り切れば島の周囲は浅瀬になっているので安全である。僕に連れられ、こまうさぎ氏も島に渡ろうとしたが、その「足の立たない海域」がこまうさぎ氏を阻んだ。やはり海流が強すぎるのである。
 コントのようだが、こまうさぎ氏は島に渡るべく、懸命に流れに逆らって泳いでいるのに、ほぼ同じ速度で流れがこまうさぎ氏を押し戻すので、こまうさぎ氏の体は一向に前に進まない。仕方ないのでかなり遠回りをし、浅瀬を伝って島に上陸した。
 満潮時と干潮時で、島の周囲は大きく異なっている。深さが増したので、より大きな魚が泳いでおり、先程生存競争をしていた熱帯魚たちの影は見えない。島の上に上ってみても、さっきまで低かった海面がぐんと近い高さに見える。さっきまで、僕たちはこの岩の上から海へダイブして遊んでいた。海面までは2m程度あって面白かったのだが、この高さではダイブさえできない。
 干満の差はよく心得ているつもりだったが、これだけ違いを目の当たりにすると、自然の驚異を畏怖せずにはいられない。何万トン、何億トンもの海水を、満潮の移り変わりと共に移動させるそのパワーは、とても人間業で成せるものではない。
 潮の満ち引きは、月による引力と地球の自転による遠心力が原因となって起こるが、このエネルギーは莫大なものである。例えば、大阪湾の面積は約1500km2だが、潮が満ちてこの海面が一様に1mだけ上昇したとしよう。この時必要なエネルギーは実に400万kWh以上にもなり、これを電気エネルギーに換算すると、平均的な日本人3万人以上が1日に使用する量に相当する。このエネルギーをたった一回の干満で放出する、それも大阪湾というごく限定された海洋だけでこのエネルギーなのだから、地球の全海洋面積が大阪湾の24万倍である事を考えると、潮汐力の強大さがさらに実感できるだろう。
 また、海水が干満の差によって動くとき、海底との間に潮汐摩擦と呼ばれる摩擦が生じるが、この摩擦力は地球の自転を遅くする原因になっているという。古生代には地球の自転に掛かる時間は約22時間であり、一年も400日程度あったと考えられている。地球の自転にまで影響を及ぼす潮汐力、恐るべしである。

 浜に上がって、シートの上で寝転んだ。照り付ける太陽が眩しいが、「生」というものを実感できる時間だ。太陽の位置で時刻が大体分かるので、時計など必要ない。沖合を走る連絡船、濃緑を放つ椰子科の植物、水平線を見(はる)かせば西表島の島影が霞み、打ち寄せる波はあくまでも静かである。
 これが「島時間」なのだ。
 沖縄の人間は、時間にルーズだとよく言われる。最近は都市化が進んでそうでもなくなったが、この気候条件を鑑みれば当たり前とも思えてくる。1時間やそこら遅れてやって来ても平然としていられるというのは、本土人にはできない事だろう。しかし公式の場以外では、日本本土ほど時間にうるさい地域は無いに違いない。ヨーロッパなどでも、1時間や2時間不正確なのは半ば公然と認められているものでさえある。
 宮脇先生がよく引き合いに出されるのだが、イギリスには「珍しく汽車が時刻通りに着いたと思ったら、24時間遅れだった」という小咄 (?) があるくらいなのだそうだ。あの、日本より小さな島国でさえそうなのだから、大陸文化はもっと鷹揚であって然るべしである。
 帰りはコンドイ浜経由で宿に戻る事にした。島には要所に道標があり、まず迷う事はない。たとえ迷っても小さな島内の事だから、暫く迷っていれば元の場所に帰るだろうし、道行く人に訊いてみれば必ず親切に答えてくれるだろう。
 コンドイ浜は、観光客の為に整備したというような印象の強い浜で、シャワーやトイレも完備されている。しかし感心だったのは、観光客が捨てたらしいゴミなどは一つも落ちていなかった事。
 海は、ゴミを平気で捨てるようなバカな奴等から、島々を守ってくれているのである。島に来る人々に悪い人は居ないと言うが、それはこの浜に象徴されているではないか。
 ここからは小浜島の島影がすぐ近くに見え、竹富島より起伏に富んだ……とは言っても最高峰の大岳(うふだき)でさえ標高99mであるが……地形がよく分かる。
 因みに、沖縄の島の成因には大きく分けて2つあるのをご存じだろうか。火山地形と隆起珊瑚礁である。
 火山地形はその名の通り、海底火山が噴火して溶岩を海中に噴出し、だんだんと高くなった先端が海上に出たものと考えればよい。八重山では、石垣島、西表島、小浜島、与那国島がこれに該当する。
 隆起珊瑚礁も読んで字の如しで、浅瀬にあった珊瑚礁が地盤の隆起と共に海上に出たものであり、八重山では上記の4島以外、全てが隆起珊瑚礁であると考えて良い。
 しかし隆起珊瑚礁とは言っても、珊瑚礁が発達する為には浅い海が必要であるが、八重山の海を浅くしたのは火山活動であり、もし火山活動が活発がなければ隆起珊瑚礁ができる事も無かったはずだ。
 つまり、火山活動によってできた石垣・西表などの島々周辺の浅い海域に珊瑚礁が発達し、それがやはり火山活動に伴う地盤の隆起によって海上に出たという歴史になるだろう。つまり隆起珊瑚礁の島々は、火山地形の上にできたカサブタみたいなもので、珊瑚でできた島とは言え、地下何メートルまで掘り進んでも岩珊瑚ばかりという訳ではなく、少し掘れば火山地形の岩盤に行き当たる。
 という訳で、竹富島で最も高い場所はほんの標高30数メートルに過ぎないが、小浜島には大岳という山がある理由がお分かり頂けただろうか。
 コンドイ浜を後にして、宿に戻る。半日以上泳いでいたので空腹感は絶頂であり、火照った体をシャワーで流してから食堂に向かった。沖縄そば、モズク、イカソーメン、かき揚げにエビフライなどの夕食を済ませ、こまうさぎ氏と部屋に戻った。
 離島の夜は早い。出歩いても夜中は見るものとて無いし、それに、どこにサキシマハブが潜んでいるか分からない。外に出るのは星を見上げる時くらいのものであった。
 時間を持て余した僕たちは、カードを繰ったり花を引いて無聊を慰めた。



 翌15日は終戦記念日である。しかし、そんな事は皆様が周知の事と思うので、この紀行文には書かない。しかし、朝食のご飯が赤飯だったのは、ひょっとすると終戦記念日祝いだったのかも知れないと思った。
 昨日、僕たちは大阪を発って以来溜まっていた洗濯物を、一気に片付けてしまった。それ故僕たちの部屋の内外には、膨大な量の洗濯物が干されている。
 ここで笑い話にしかならない尾籠(びろう)譚を一つ披露しておくと、僕はこの旅に、パンツを持って行くのを忘れてしまった。パンツも入れていないのに背負っているバックパックは20kg、一体何が入っているのかと言われそうだが、携えているのは大阪を発った時点で履いていた1枚のみで、実に13日間を過ごす事になったのである。島では水着を短パン代わりに履いていたので問題なかったが、さすがに困った場面もあった。
 さて、終戦記念日の今日は黒島に日帰りで行こうと思う。
 黒島は面積10km2、人口220人余に対して牛が3千頭以上という島である。ニュージーランドは人口より羊が多い事で有名であり、380万人に対して5千万頭の羊が飼育されているが、日本で人口より動物の飼育頭数が多いというのは稀ではないだろうか。尚、黒島の牛飼育頭数は年々増えているようで、1999年の記録では2650頭とある。4年で13%の増加だから、とんでもない増加率だ。人間に置き換えてみれば、人口爆発と言われる東南アジア諸国でも、ここまでの伸び率を記録している国はない。
 黒島の牛が増えた原因については、狂牛病などで外国産の牛肉の輸入が滞り、日本産の牛がよく売れるようになった事などが考えられるという。

 10時45分の船で帰るというお客さんと一緒に、港まで送ってもらった。その車中での事。
「昨日の晩、花札してましたか?」
「え?はい、してましたが。」
「な〜んだ、じゃあ誘えば良かったなぁ。」
 話し掛けてくれたのは、僕たちの隣室のご夫妻だ。ご夫妻に依れば、この民宿では毎夜のように宿泊者による「ゆんたく」がある。そこへ僕たちも誘おうかと思ったそうなのだが、若い二人の邪魔をしてはいけないからと、誘うのを辞められたそうなのだ。
 しかし、ゆんたくが終わって部屋に戻ってみれば、隣室から僕たちの声が聞こえる。昨夜の勝負はこまうさぎ氏の大勝に終わったのだが、役の得点計算などの声で花を引いていた事がバレてしまったのだろう。しかし、バレたが幸いだ。そんなゆんたくに行けなかったなど、不本意の極みである。僕たちもご夫妻も連泊なので、今夜は必ず出席させて頂くと言って、港でご夫妻と別れた。

 竹富島から黒島へは、直接行ける訳ではない。連絡船は石垣島を拠点に就航しているので、一旦石垣に渡ってから改めて黒島行きの船に乗らなくてはならない。
 今日は昨日と一転して空模様が怪しく、重そうな色の雲が空を埋め尽くさんとしている。
 石垣島に着いたが、黒島行きの連絡船は本数が少なく、1時間ほど待ち時間があるので、港に程近いマチグワー(市場)を探訪する。市場と言うよりは商店街だが、沖縄の食事情が良く分かって非常に興味深い。こまうさぎ氏は教え子たちへの土産を買い、僕は僕でゴーヤーとバナナのジュースがあったので興味本位で飲んでみる。目の前でミキサーを回して作ったのを飲ませてくれるので、爽やかな苦みが美味しかったのだが、ガメツイ性格の僕はカップの縁に付いた泡まで舐めてみたら、これが途方もなく苦かった。
 黒島行きの連絡船に乗り込む。雲は一層暗く垂れ込めてきた。
 この船の出航時刻が正午であったが、終戦記念日であるので、僕たちは動き出した船の中で目を閉じ、黙祷を捧げた。
 因みに、沖縄本島とその周辺の離島には、アメリカ軍の上陸が行われ、戦闘による多数の死者が出た事は皆様もご存じだろうが、石垣島をはじめとする八重山の島々がどういった運命を辿ったかを知っておられる方は少ないのではないか。
 八重山の島々には米軍が上陸こそしなかったものの、日本軍が作った飛行場を破壊する為に空爆が行われ、その際に市街地まで延焼するといった事があったようだが、本島のような阿鼻叫喚の世界にはならなかったらしい(あくまでも「比較」の問題であり、戦争中なのだから悲惨でない訳はない)。だが、それよりも酷かったのはマラリアによる被害だ。島には、終戦の前年になって多くの日本兵がやって来たが、その為に住む場所が不足し、軍部は「疎開」の名目で、地元民をマラリアを媒介する蚊の多い地区へと強制的に移住させたのだ。その為に多くの人々が死亡し、中でも西表島に疎開させられた人々は、3割以上が死亡したという説もある。

 石垣島から黒島までは25分を要する。竹富までが10分だから、距離も遠いし運賃も少し高く付く。
 右舷に竹富島を見ながら、島の周りを回り込むように進んでから南へ転針し、ほぼ定刻に黒島に到着した。
 黒島の港は竹富島のよりさらに小規模で、水深も非常に浅そうであった。元々砂浜だった所にコンクリートを流して取りあえず固めただけといった感じで、何とも似つかわしい。
 港の真ん前にレンタサイクルがあったので自転車を借り、島の南西にある仲本海岸へと走る。晴れていれば申し分ないのだが、雲は多くなるばかりだ。
 仲本海岸への道は、牛の大牧場の真ん中を真っ直ぐに突っ切る。黒島も隆起珊瑚礁の島だから起伏は殆ど無い。所々にソテツの生えた牧草地で、牛たちが気怠そうに草を食んでいる。3千頭もの牛が居るのだから密度も高いのかと思っていたら、牧草地の規模が大きいので疎らにしかいなかった。
 宮里の集落で左に曲がり、仲本集落から海に向かう地道に入ると、目の前に海が開け始める。いつの間にか雲が切れ、青空が覗き始めた。発達した堡礁が海岸線のすぐ近くにあるので、干潮時は堡礁の内側の海は完全に独立した礁湖と化している。幾層にも色を変える礁湖と、姿を晒している堡礁の岩の色、そこへ砕ける波。遠く見える島影は新城島だろうか。それらが、突然に照り始めた太陽の下でイラジエーションを起こした。
 こまうさぎ氏は、ここで砂浜に打ち上げられていた珊瑚を拾った。この白い珊瑚は今、彼女の部屋でペーパーウェイトとして使われている。
 自転車を停め、干潟の上を歩いてみる。足下には多くの生物たちが、個性的な生活を確立していた。
 中でも最も個性的なのは、やはりカクレクマノミだろう。普通の生物が嫌うイソギンチャクとの共生を選んだこの生物は、その柄も変わっていて、白、黒、オレンジ色の3色模様である。
 この共生関係は非常に巧くできており、互いの天敵から互いを守るようになっているのだ。今回、僕たちが見つけたカクレクマノミはハタゴイソギンチャクと共生していたが、ハタゴイソギンチャクには刺胞毒があり、人間が触った場合でも発疹が出たりする。しかし、カクレクマノミにはイソギンチャクの毒に対する免疫力があるので、触手に触れたところで死んだりしないのだ。
 例えば、イソギンチャクの天敵はチョウチョウウオ科の魚などであり、これらはイソギンチャクの毒をものともせずに触手を食いちぎるそうであるが、弱者であるはずのクマノミは縄張り意識が強いので、それらの外敵に対して果敢にも攻撃を仕掛けていくのだ。さらに、イソギンチャクには寄生虫が付く事が多いが、クマノミたちはその寄生虫を補食する。所謂「クリーニング」だ。さらに、クマノミがイソギンチャクの触手の間を泳ぎ回る事で触手内と外部の海水が循環し、触手の周囲を常に新鮮な状態になるというメリットもあるらしい。
 逆にクマノミの天敵はクマノミより大きな肉食の魚であるが、これはよくご存じのように、クマノミがイソギンチャクの中に潜り込む事で回避できるのだ。クマノミを追う魚があまりに深追いすると、逆に刺胞毒の餌食となるのだ。とは言っても魚には痛点が無いので、人間がイソギンチャクに触れた時のような痛みや痒みが魚にも感じられるという事はないが、魚の場合は筋線維が麻痺し、一時的に動けなくなってしまうようである。
 尚、人間がイソギンチャクに手を触れると、強力に吸い付かれるそうである。これは、こまうさぎ氏が自分の指で確かめた事なので間違いない。こまうさぎ氏は幸運にも触手の毒に侵されなかったが、ハタゴイソギンチャクは毒性が弱いとは言っても、下手をすると1週間以上も痒みが残るような発疹ができてしまうので注意されたい。
 こうしたクマノミとイソギンチャクの関係を共生と呼ぶが、正しくは「共利共生」、則ち互いに互いの利益となりながら生きている状態となる。他には、片方の生物だけが利益を被るが、他方の生物にとっては利益にも損害にもならない場合を「片利共生」、片方の生物だけが得をし他方の生物は害を被る場合は、ご存じのように「寄生」と呼ぶのだ。

 タイドプールには他にも多くの生物が住んでおり、いくら生物に興味がない僕であっても見飽きる事はない。しかし、腹が減ってしまっては戦ができぬ。
 来た道を戻って、宮里集落にある島で唯一のレストラン「Palm Tree」に入る。横浜で洋食屋のコックをやっていたご主人が、店名さながら椰子の実が漂流するように移り住んで開業しただけあって、沖縄の味と言うよりは洋食に近い。最も人気があるメニューも洋風チキンカツ丼だから、黒島とも沖縄とも、基本的に関係がない。
 しかし、味は離島の店とは思えない。僕は黒島牛の炒め物の定食(正しいメニュー名不詳)、こまうさぎ氏は洋風チキンカツ丼にしたのだが、"Simple is the best."をそのまま料理にした感じで、あっという間に食べ終えてしまった。
 しかし、僕たちが店に入る直前から降り出した雨は、車軸を下すが如くという表現がピッタリ似合うほど、猛烈な勢いで島全体を包み込んだ。当にスコールである。僕たちはこの後、日本の道百選にも選ばれた県道213号・黒島港線を走って港に戻るつもりだったのだが、この雨ではどうしようもないので、追加注文する事にした。こまうさぎ氏はデザートにケーキセットを頼んだが、僕は八重山そばを注文する。相も変わらずよく食うヤツである。
 沖縄には調味料が非常に数少ないが、その中で、島唐辛子を泡盛に漬け込んだコーレーグースは、沖縄そばに実によく合う。内地でも、うどんには七味唐辛子をかけるのが定番であるが、それとよく似ている。無論、味は全く異なり、泡盛独特の香りと、丸のまま入った島唐辛子の強烈な辛さが見事にマッチし、病み付きになる美味さである。辛い物好きな僕は、八重山そばにもたっぷりかけて頂いた。尚、コーレーグースはかなり少量でもよく効くので、かけすぎには注意した方が良い。
 さて、2人前の昼飯を平らげたにも拘わらず、まだスコールは止む気配もない。こうなればスキを突いて一気に港までダッシュしようと思っていると、若干空が明るくなったような気がした。雨も少し小降りになったようである。

 払いを済ませて自転車にまたがり、少しは弱まった雨の中を走り始めたのだが。
 1分も走らないうちに、雨脚が一帯を白く染めながら、すさまじい早さで僕たちを追って来た。道は真っ直ぐでつづら折りではないし、僕たちの目的地である黒島港はまだまだ先だし、辺りには杉の密林など無いが、雨の降り方は川端の描いた情景そのものだ。
 もはや乗りかかった船、今更引き返すわけにも行かず、僕たちは再び強まった雨脚の中を一気に走り、全身濡れ鼠になって黒島港へ辿り着いた。雨は止みそうになく、辺りには巨大な水溜まりが出現し、溝には濁流が渦巻いて海へと注いでいる。黒島にも川らしい川は無いので、降った雨は地中に吸収されるか、表層を一気に海へと流下する。隆起珊瑚礁の島には共通して言える特徴である。
 15時40分の連絡船で黒島を後にした。短い間だったが、クマノミを見たり雨に降られたり、実に時間の密度は濃かった。

 石垣島から竹富島に戻る船中、僕たちはスターフルーツを食べた。
 これは黒島に行く前に石垣の市場に寄った際に注文しておいたもので、一口大に切って冷やしておいてくれてある。乗り換えの合間にまた市場に行って取ってきたのだ。
 スターフルーツは、その名の通り断面が「☆」型をしている果実で、味や食感はリンゴに似るが酸味がやや強い。自然界には三角形や六角形といった形が多いが、五角形は珍しい。
 竹富港に着き、宿へは徒歩で戻るが、雨は先程から止み、空には晴れ間も見えてきた。スコールとはこういうものなのだろう。
 竹富島の集落に入ったが、人気が全くない。珊瑚が粒状になった水はけの良い土にスコールもあっという間に吸収されているので、誰もが知らぬ素振りをしているかのようでさえある。
 民宿の庭では、既にゆんたくの前哨戦が始められており、三線(さんしん)も出ている。聴けば、皆さんが自分のを家から持って来られたとの事。さすが、である。
 しかし、僕たちは西桟橋から夕陽を見ようと思っているので、夕食を取ってから一旦民宿を出、こまうさぎ氏と自転車を漕いでコンドイ浜のさらに少し北にある西桟橋に向かった。

 西桟橋は、昔こそ船が発着していたらしく、海岸線と垂直に延びた波止場が一本あるが、今は使われていないようで、専ら夕陽のよく見える場所として賑わっている。この日も、日没が近付くにしたがって多くの人々が群れ始めたが、肝心の太陽はスコールをもたらした雲の名残に遮られて見られなかった。しかし、小浜島と西表島の島影が夕陽に照らされて色付き、薄紫色の海には雲間から差す太陽の光が幾条かオレンジ色に輝く。太陽は雲に隠れていても、実に壮麗な光景が展開された。
 水平線のすぐ上空が真っ赤になって陽が落ちると、辺りに人影はなくなり、砂浜には夥しい数のヤドカリが(うごめ)き始める。それはあたかも、多くの小石が魔法に操られて意志を持ち、めいめいに動き出したかのようである。中には人の拳2つ分程もある貝を背負い、砂浜をノソノソと這う奴も居たが、何とデカイのかと言う前に、よくそんな大きな貝を見付けてきたなと言いたい。

 ゆんたくは僕たちが帰る前に、既に始まっていた。意外に関西からの方が多く、11人中5人が関西人であった。夜更けまで続いたゆんたくでは、沖縄民謡が三線で演奏され、皆が存分に沖縄を語らった。旅にはこういう力がある。
 僕も自分の持ち歌を披露したり、落語まで語った気がするが、それについて多くは述べず、沖縄民謡についての僕の考えを述べて、この夜の紀行文に代えたい。
 沖縄民謡は、ご存じの方も多かろうが「ド、ミ、ファ、ソ、シ」の5音で歌われる。半音も無い。ここで西洋の音楽が12もの音程を持つ事に比べると、沖縄の音楽は未発達なのかと思われるかも知れないが、僕はそう思わない。逆に、沖縄の人々には、12も音が必要無かったのではないかと思う。
 少しく小難しい話になるが、西洋音楽の「ド、ド♯、レ、レ♯、……」はどのように定義されているかご存じだろうか。ピアノの鍵盤を叩けばいつでも聴ける音だが、定義となるとご存じの方は少ないだろう。
 まずはオクターブの概念から話そう。これは、ピアノ鍵盤の丁度真ん中にある「ラ」の音(英音名A)を440Hz(ヘルツ)と定義し、1オクターブ離れた音は周波数を2倍または1/2倍した音程と定める。つまり、鍵盤の真ん中の「ラ」より1オクターブ上の「ラ」は880Hz、1オクターブ下のラは220Hzとなる。因みに440Hzの音とは、音波が1秒間に440回振動している事を示す。また、こうした値を音の周波数と呼ぶ。
 さて、ここでドとド♯、またド♯とレ……が、何Hzずつ離れているのか考えると、これが極めて規則的なのだ。
 平均律という言葉をご存じだろうか。これは1オクターブを平均的に12等分し、各々の音に「ド、ド♯、レ、レ♯、……」と名付けたものであり、ピアノの音はこのように調弦されている。
 だからと言って、440Hzのラと、880Hzのラの音の間に、均等なHz間隔で音が並んでいる訳ではない。880Hzと440Hzの差が440Hzだから、それを12で割って37Hz毎に音が並んでいるのではないのだ。と言うのも、それでは1オクターブを『平均的に12等分』した事にはならないのである。
 何故なら、最初の定義として、1オクターブ離れた音の間には、周波数が2倍または1/2倍という関係があった。これを満たす為には、12分の1を求めるのではなく、12乗根を考えなくてはならないのだ。
 つまり、1オクターブで周波数は2倍になるのだから、各音の間隔は2の12乗根(12乗すると2になる数)、1.06倍ずつ離れているのである。つまり、440Hzのラより1つ高いラ♯の音は、440×1.06で466Hz、さらに1つ高いシの音は466×1.06で494Hzという風になっているのである。
 さて長々と書いてしまったが、ここで僕が言いたい事は、西洋の12音音階に絶対性など何もないという事である。最近は各地の民謡の良さが見直されつつあるが、それでも音階と言えば12音であり、それ以外の音楽は異端視さえされていると僕には思える。しかし、音階が12音である必然性など、全くないのだ。
 言ってみれば音階が12音なのは、俳句が「五・七・五」であるのと同じように、人間の耳を楽しませやすかったからという理由でしかないのだ。この時点で、僕は近代音楽の一派である「十二音音楽」(12の音を等しく扱おうという訳の分からない概念の下に、1小節に12の音を1つずつ並べただけの音楽)が如何に無意味なものかが分かると反論したいのだが、ここでそれを述べてしまうと議題が余りにずれるので、またの機会という事にしよう。何れにせよ、1オクターブが12音というのは、西洋で生まれた音楽が偶々そうだったというだけの話で、現に世界中を見回せば、5音の平均律や6音の平均律も多数ある。
 つまり、沖縄民謡に音程が5つしか無いのは、決して沖縄の音楽が未発達な文化だからという事ではなく、沖縄の人々の豊かな心には、音程など5つで充分だったのだ。古くから中国と日本の双方より優れた文化を取り入れた沖縄だが、内地の文化はどちらかと言えば他の文化の真似であったのに対し、沖縄は、それを自分たちに最適なものへと変化させる力を持っていた。
 中国の音楽は5音音楽だと言われるが、これはあくまでも通説であって例外が多い。それに中国音階は「ド、レ、ミ、ソ、ラ」の5音であり、沖縄音楽とは似こそすれ同一ではない。同じ事は内地の音階との間にも言える(尚、詳しい解説は省くが、日本の音階は中国のそれと音程的に変わらない)。
 沖縄の音楽はこうして、原型こそ渡来した文化を吸収したが、それを見事にアレンジし、自分たち独自の文化へと創り替えていったのである。
 また、ここからは僕の持論なのだが、基本的に12音音階で育った者は、その呪縛から逃れる事ができず、音程数のより少ない音楽を我が物とする事は極めて難しいように思う。
 例を挙げると、最近は内地の人間が作った沖縄曲が氾濫しているが、はっきり言ってどれも聴けたものではない。僕なりにこの理由を考察するに、小さい頃から12もの音程がある音楽に馴染んでいると、いざ5音音階で作曲しようとしても、どこかに無理が出てしまうのだ。長年の間に染み着いた12もの音階の中の、たった5つしか使えない事にどうしても不自由さを感じてしまい、その不自由さがそのまま曲調に出てしまうのだと思う。
 つまりこの意見を一般化すれば、少ない音数の音階で育った者が多くの音程を持つ音階を体得する事はいくらでも可能だが、その逆は余程の才能があるか、またはその文化の中で長らく生活をし、少音数の音階に体を慣らさないと不可能であるように思う。
 沖縄人が作曲した曲には、まだ良いものが多いのが嬉しい限りだが、沖縄の人々であっても小さい頃から西洋音楽に慣れ親しむ時代であるから、いつまでこの状態が続くか分からないというのが、残念ではあるが僕の本心だ。無論、僕の持論が一般的に正しいなどという保証はどこにも無い事だけが、唯一の救いであるが。

 ゆんたくは日付が変わる頃までその熱を上げ続け、僕たちは最高の島の夜を満喫したのであった。

竹富島で会いましょう
           作詞作曲 : BEGIN
旅を続けていればこそ
いつかもう一度会えるはず
白いサンゴの一本道は
星の砂へと続く道
サーツンダラカヌシャマ マタハーリヌ
竹富島で会いましょう

時は流れているものを
刻むからこそ無理も出る
船に揺られて釣り糸垂らせば
釣れた魚は空の色
サーツンダラカヌシャマ マタハーリヌ
竹富島で会いましょう

夕日待つ様な赤瓦
恋を伝えるミンサー帯
誰を待ちましょうコンドイ浜で
浅い眠りで夢の中
サーツンダラカヌシャマ マタハーリヌ
竹富島で会いましょう

かわす言葉も日焼けして
島のなまりがかわいい人
並ぶ石垣福木の影で
聴いた島唄忘られぬ
サーツンダラカヌシャマ マタハーリヌ
竹富島で会いましょう

昔大和の今東京
距離は呼び名で変わるもの
年に一度の種取り祭り
種をまきましょう胸の中
サーツンダラカヌシャマ マタハーリヌ
竹富島で会いましょう

サーツンダラカヌシャマ マタハーリヌ
竹富島で会いましょう      Repeat 2 times


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