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漸く僕の目が覚めたのは、東武宇都宮到着の直前だった。頭端式になった東武宇都宮駅で写真を撮ったが、別に降りたところでする事など無いので、折り返しの電車でまた栃木に戻る。
まだ雪が融け残る住宅街を、2輌編成の列車は静かに走っていく。素晴らしい陽気で、この雪も間もなく消えるだろうと思われた。車内は読書率とマスク率が高い。マスクは花粉症対策なのだろうが、読書をしている人がこうも多いのは何故だろう。しかもお年寄りから若い女性まで、読んでいるのは雑誌や新聞が少なく、殆どの人が文庫本を読んでいる。栃木県人には勉強家が多いのだろうか。こうした車中の観察で、意外にもその県の県民性を知る事ができたりするものである。しかし乗車率は15%程度と、芳しくない。 |
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帰りは新栃木駅で降りてみた。これから北に向かうので、栃木まで戻るより、新栃木の方が良いかと思ったからだ。しかし駅の時刻表を見ると、次の列車は45分後まで来ない事が発覚した。私鉄のダイヤは大型時刻表にさえ全て掲載されている訳ではないので、屡々こうした失策が生じる。こんな事なら栃木まで行って、先発の特急スペーシアで日光まで行って、日光で時間を取れば良かったと思う。
こういった事は、JR完乗への旅路では決して起こらなかった事であった。JR完乗の際には、極めて緻密にその日の行程を事前に立て、旅する日はただ実行するだけ、といった感じであった。しかし、完乗後はその場の機転で旅をする事の魅力に取り憑かれ、今ではどんなに長い旅路でも、大体の行程は立てるが詳細はその時の気分次第という事にしている。その裏返しがこういった形で発現するのだが、それはそれで旅の醍醐味なのだ。 |
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仕方なく途中下車して駅前をぶらついてみるが、こうしていると、この駅で降りてしまった事を悔やむ気持ちなど無くなる。見ず知らずの街、しかもついさっきまで、降りるつもりなど毛頭無かった街を彷徨う。これが言いようもなく楽しい。自分が何の束縛も受けない境地にいる事を、しみじみと実感できる時間である。旅行貯金をしながら街をぶらついていると、45分などは夢の間に過ぎてしまう。
栃木は「蔵の街」として紹介される事が多いように、街中にも多くの蔵が建てられている。これは地理的な理由に因るものである。栃木は関東平野の北端に位置する為、ここまで舟運を利用して運ばれてきた荷物も、ここからは流れが急になる為に船を用いて運ぶ訳にはいかない。そこで、そうした荷物を一旦運び入れておく蔵が発達したのだろう。
13時44分、東武日光行きの快速に乗り込んだ。 |
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鹿沼を出た辺りから、前方に男体山をはじめとする、日光の急峻な山並みが見え始めた。座席はボックスシートだが、此処まで来るとさすがに空いていて、僕は4人用の席を独り占めしていた。客層は、リュックサックを背負った中高年が大半である。かく言う僕も、出で立ちはいつもと変わらず、大きなバックパックにカメラバッグを提げている。要らない分の荷物はこまうさぎ氏邸に置いてきたが、それでも小さいバッグには入りきらない量だった。
線路沿いに建ち並んだ住宅の公園で、幼子を抱えた母親が、列車に向かってバイバイをさせている。日陰の斜面には雪が残っているようになった。 |
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日光は、北への大志前談でJR日光線を乗破した時以来だ。あの時は本当に「乗るだけ」の旅だったから、日光駅で下車はしたが、一切の観光をしておらず、13分後に折り返す列車に乗って帰ってしまった。今日こそは、少しゆっくりして日光の一条でも垣間見られたらと思っていたのだが、如何せん、先程の新栃木でのしくじりがあるから、またもやゆっくりは出来なくなってしまった。
14時25分、東武日光到着。取りあえず駅前に出てみる。今日は特にフリーきっぷなど使っていないので、降りない方が安上がりなのだが、少しくらい多めの運賃は払っても、是非降りてみたい。 |
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一天に雲一つ無き碧空の下、ログハウスを模したような造りの東武日光駅を見渡す。団体の乗降に対応した、やけに多い改札口や幾つもある出入り口のドアが、未だ日光を訪れる人の多きを示している。プラットホームも同じで、団体用の長い編成が入線できるよう、普通列車用のホームの他に、団体専用の引き込み線とホームを持つ造りになっている。
14時47分、初めての滞在時よりは長かったが、たったの22分で日光を後にする。当然、日光を楽しむ時間など無く、またもや次の機会にする事とした。前来てから2年半が経っていたが、その時の思い出に浸る暇は無かった。
日光線と鬼怒川線が分岐する下今市駅で下車、ここで会津鉄道の会津田島行きに乗り換える。 |
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会津鉄道は、元・国鉄会津線だ。会津線は只見線の西若松から南に向かって走り、会津高原までを結んでいたが、国鉄再建法案に引っ掛かって廃止対象路線になったところを、地元が第三セクターの会津鉄道で運行する事になり、しかも会津高原以南の線路も国鉄時代からの工事を引き継いで進められ、昭和61年に新藤原−会津高原間の野岩鉄道が開業した事で東武鬼怒川線から会津鉄道会津線までの直通ルートが完成、現在に至る。この相互連絡のおかげで、東武鉄道の快速に乗れば東京の浅草から190kmの会津田島まで3時間40分、乗り換え無しに到達する事が可能となっている。
お世辞にも早いとは言えず、自動車には敗れるであろうが、ゆっくりと首都圏を抜け出し、沿線の景観が鄙びて、遠くに男体山が見えてくる時の様子は、かなり感動的である。
2駅区間なので7分で到着した下今市では少し時間があったので、ホームの駅弁売りから「地鶏の弁当」を購入。私鉄の駅で駅弁を売っているのはかなり珍しい。各車内にも「この先、弁当が売っている駅はありませんよ〜」などと声を掛けて回るので、乗車率の割には結構売れている。 |
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15時20分、下今市発。また4人用のボックスシートを独り占めし、一路、会津田島へと向かう。
車内で早速、「地鶏の弁当」を開いて食べ始める。山菜・錦糸卵と共に御飯の上に乗るのは、大きめの地鶏の切り身とそぼろである。付け合わせには日光の特産だという湯葉が入っている。
歯応えのある地鶏の味を楽しみながら、車窓を眺める。列車は下今市駅を出るとすぐに、鬼怒川の支流である大谷川を渡るが、この川の上流約20kmにあるのが、有名な華厳の滝である。日光駅からはバスも出ており、往復2時間もあれば見てくる事が出来る。 |
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新高徳の辺りから、いよいよ列車は鬼怒川本流に沿って走り始める。鬼怒川には水力発電所が多く、送電線によって、主に首都圏での電力を賄っている。それでも、水力発電が日本の全電力消費量の約10%しか賄っていない事を考えると、一体人間はどれだけ電気を消費したら気が済むのかと考えてしまう。無論、工場などで使用される電気の占める割合は多いのだが、近頃はISO14001の取得などや機器類の省エネが進んだ事も相まって、工業用の電力消費量はむしろ減少傾向にある。
やはり、電力消費量を小さくする為には、家庭で使用される電力を小さくするのが最も手っ取り早い。現在、家庭に於ける月間の電力使用量は1人平均約120kWh程度だが、これを1割減らすだけで、日本全体としては年間180億kWhもの電力消費を減らす事が出来る。これは石油に換算して40億リットル分だから、如何にその効果が大きいかお分かり頂けるであろう。因みに「そんな事が可能なのか」と仰言る方の為に言っておくと、碓氷峠の夏の下宿の月平均使用電力量は、50kWh以下である。
省エネとはこういうもので、その気になればいくらでも減らす事が出来る。碓氷峠の夏のレベルに到達するのはなかなか大変だろうが、1割減なら、何となくできそうではないだろうか?この小さな心がけが、非常に大切なのである。
閑話休題。列車は鬼怒川を遡るように走り続け、15時42分、定刻に鬼怒川温泉駅に到着した。ここはバブルの頃に成金たちがよく訪れた温泉地のようであるが、関西で言ってみれば有馬温泉のようなもので、どうも僕の降りてみたい温泉地ではない。列車も、愛想で停まっているかのようで、あっという間に発車してしまった。
しかし、車窓からの眺めはだんだんと良くなってくる。うらぶれた鬼怒川温泉の旅館街を抜けるとトンネルの連続となり、15時53分、新藤原駅に到着。ここから路線名は東武鉄道鬼怒川線から、野岩鉄道会津鬼怒川線に変わる。 |
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雪はまだ線路にも残っており、近くの山も雪を残して寒々しい。ただ、一駅前の鬼怒川公園から乗ってきた小学生たちの歓声だけが鮮やかだった。
6分間停車してから、列車はまた会津を目指して走り始めた。因みにこの列車、浅草を出た時は名実共に快速であり、首都圏を走る希少なボックスシート車でもあったが、下今市以降は各駅停車になっている。何しろ、野岩鉄道は東武鬼怒川線から直接乗り入れてくる列車以外走らないので、各駅停車にしないと駅の存在意義が無くなってしまう。
トンネルに挟まれた龍王峡駅を出ると、小網トンネルという長いトンネルに入り、出たところが川治温泉だ。バブルの飛沫もここまでは飛んで来なかった様子で、先程の鬼怒川温泉と比べてずっと好ましい感じがした。特に、川治湯元は駅全体がトンネルに突っ込んだような形になっていて、改札口に続く上り階段は上越線の土合駅を思わせた。 |
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川治湯元からまた長い葛老山トンネルに入る。このトンネルは標高千メートル近い葛老山の真下をぶち抜いており、さらに両側を2つのダム湖である五十里湖と八汐湖に挟まれている。五十里湖は、如何にも川を堰き止めて作った湖であるという形をしており、線路は暫くこの湖に沿って走るのだが、折角の景観もトンネルの中からでは見ることができない。だが、塩原温泉の入口である上三依塩原駅付近などでは、くっきりとした山の稜線と空の対比、それに雪を被った山の斜面と密生する雑木の対比を存分に楽しめた。
男鹿高原を過ぎると山王峠をくぐるトンネルに入り、栃木県と福島県の県境を越える。分水嶺を越えるので、長かった鬼怒川との旅路に別れを告げ、トンネルを出たところから「恋路沢」という、何ともロマンチックな名前の小川に沿う。この沢がやがては数多くの沢や支流と出会い、新潟平野を形成した阿賀野川に成長するのだ。 |
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17時4分、定刻に列車は終点の会津田島に着いた。乗り換え時間が26分もあるので外に出てみるが、人気は殆ど無く、客待ちのタクシーが数台並んでいるだけで何もする事がない。仕方なく駅に戻り、この間に今夜の宿を予約しておいた。
会津鉄道のディーゼルカーに乗り込んで揺られるうち、じきに陽が落ちた。南西の山の端だけが赤く、東から濃紺の空が押し寄せてくる。間もなく、外が見えなくなり、僕も眠りに落ちた。外が見えないから眠るのは気が咎めないが、初めて乗る路線を夜に寝ながら通るのは、不本意ではある。しかし、致し方ない。 |
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目が覚めると南若松を出た辺りであった。「塔のへつり」「あまや」などの駅名看板を見られなかったのは残念であるが、1時間も熟睡したのでスッキリとして、18時40分、会津若松に到着した。ここで一旦下車し、駅前のスーパーで今夜の夕食を購入する。宿はYHを予約したが、素泊まりなので先に買っておかなくてはならない。
オレンジカードなども購入し、する事も無くなったので少し早いが磐越西線の野沢行きに乗り込む。車内はガラ空きだったのでボックスシートを独り占めしたが、間もなく乗客が増え始め、出発時には相席が嫌で立っている人も出始めるほどであった。
3つ目の塩川で下車した。YHまでは歩いて10分足らずである。夜道なので迷う危険性があるが、地図通りに進んで行くと、少し手前で僕に向かって手を振る人物があり、それがペアレントさんで、わざわざ迎えに出てきてくれたのであった。 |
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必要最小限しか話さないが愛想は良いペアレントさんに、ちょうど期限が切れていたYH会員証の継続手続きをしてもらい、部屋に案内される。
「昨日までは満室だったんですよ。それに、明日からはまたスキーのお客さんが泊まられるのですが、今日は碓氷様の貸し切りです。」
何と、14名収容できる離れの建物に、客は僕一人。「貸し切り」と言えば聞こえは良いが、一人きりというのはあまり宜しい事ではない。今日は月曜日であるし、無理もないとは思うが、やはりいけない。
明日の朝は早いと言うと、5時には玄関を開けておきます、それと、申し訳ないが風呂は沸かしていないのでシャワーを使ってくれ、と言い残して、ペアレントさんも出ていくと、真なる静寂がやってきた。
取りあえず、買ってきた飯を食いながらパソコンを開き、画像を取り込んだり旅のメモを取ったりする。こうした時間も、旅の大切な楽しみだ。旅の夜というのは独特の雰囲気を持っていて、僕はこの時間を愛している。
シャワーを浴びて汗を流し、布団の上に座って菓子を抓みながら読書する。
よく「旅先でまで本読むことないんじゃないの?」という意見を耳にするが、これは僕にとって、大切な旅の夜の過ごし方なのだ。特にこの夜は、孤独を感じ、思索に耽り、旅の空の下に我が身がある事を噛み締めたかった。そんな時に、読書は不可欠な存在となる。
忙しない日々から脱却し、虚空の下に身を寄せ、遙かな大地を駈く事の素晴らしさは、一人旅が一番味わいやすい。傍に、本当に誰もいない環境であるのも良い。嗚呼、今夜はそんな尊い夜なのだ。
深い息を吐く毎に、夜は闇へと落ちてゆく。遠くで川の流れの音が聞こえる。このYHに着いた時には気が付かなかった音だった。
ふと、美しさとは何だろうという在り来たりな疑問が心に湧き上がった。
こんな孤独な夜にも、美しさはすぐ隣にあるように思う。
きっと、美しさなどというものは人間の精神が生み出す抽象で、実態そのものが『美しい』などという事はあり得ないのだろう。また、美しさに客観性はなく、全てが主観で語られなければならない。この条件を満たさない美しさなど、味わうに及ばない。
ところで、人は睡眠を知覚できないが、それは主観的な事実に過ぎず、客観的に考えれば睡眠を知覚するのは簡単な事だ。だからこそ、睡眠は自己にとって不可欠な要素であり、しかし覚醒した時点でその時間を憂えても、もはやその美しさを自覚する事はできないのであろう。もっと言えば、睡眠中の自己は覚醒中の自己であるかどうかさえ疑わしいと思うのだが、ここまで言及すると議論に終止符が打てないのでやめておく。
深々とした落莫に身を任せて、僕の夜は更けていった。 |
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